「世界の英語」リスニング 里井 久輝著 アルク [言語学(外国語)]
アルクの取り組みを知る機会となった
本書『はじめに』によると、アルク発行の月刊誌 ENGLISH JOURNAL に連載中の「世界の英語」を単行本化したものだそうです。「私たちの日頃接している英語ネイティブスピーカーの発音と大きく異なることから生じる聞き取り上のギャップを埋め、ノン・ネイティブスピーカーの多彩な英語にふれることができる教材として、本書は生まれました」ともあります。
音声サンプルはアルクの指定サイトに入り無料でダウンロードできます。アフリカ、ラテンアメリカ、ヨーロッパ、アジアのノン・ネイティブ話者のインタビュー(27人分)を聞くことができます。ダウンロード手続きはたいへんカンタンでした。ちなみに、評者はパソコンにダウンロードいたしました。
実際に27サンプルを聞いてみて。変わった発音、イントネーションはあるものの、スグに英語だと識別できました。「これ英語なの?!」とビックリするものはありませんでした。以前、聞いてスグに英語と識別できない英語(とおぼしきモノ)を聞いたことがありましたので(ちなみに、発話者はナイジェリアの方でした)、ENGLISH JOURNAL既載の内容を、わざわざ単行本化する必要があったのだろうかと疑問に思いもしました。それぞれのサンプルのあとに「聞き取りのヒント」が掲載され、音声学的コメントが載せられています。音声学に興味のある方にはイイのでしょうが、国際化のなかで多様な英語話者に接する機会をこれからもつであろう読者に、多彩な英語に「触れる」のは良いというだけであれば、単行本化は必要なかったように思いもします。ノン・ネイティブの英語が(馴れれば理解できるなどというレベルではなく)全然分からないというのであれば、助けも必要でしょうし、手引書も必要になるでしょうが・・・。
いずれにせよ、本書を通して、アルクがグローバル化する世界の中で、多様な「世界の英語」を理解するためのひとかたならぬ取り組みをしているということは、たいへんよく分かりました。また、アルク発行の月刊誌 ENGLISH JOURNAL を認知できたのも、本書のおかげです。単行本の発行には、そのような影響力もあるのだと分かります。
2020年3月9日にレビュー
「反論の技術―その意義と訓練方法」香西 秀信著 明治図書出版 [言語学(外国語)]
「中身」の濃い書物です。
2005年3月13日にレビュー
少ない知見で恐縮ですが、ディベート関連の本を開きますと(入門書は特にそうですが)ディベートとは何か(定義)、その進め方は(方法)・・・という表面的内容のものが多いように思います。
「ディベートをいかに充実させ得るか」「いかに相反する立場の中から止揚した結論を引き出すか」など、議論の中身を濃いものとする具体的な提言をしている書物は少ないように思います。具体例を取り上げつつ、そのような提言をしようとすると、書籍が大冊になってしまうということも多分にあるのでしょうが・・・。
この本は、焦点が明瞭です。ズバリ「議論の本質は反論である」とブチアゲています。実例は豊富で簡潔です。反論の自修法も示されています。ギリシャの古典修辞学についての説明などは少々まわりくどいようにも感じられますが、それはそれで反論の技術を養成するための良い動機付けを与えるものとなっています。
この大きさの本の中に、これだけの「中身」をよく納めたものだと感心いたします。「議論の本質」を知り、その「技術」を磨く上でたいへん良い書物であると思います。お勧めいたします。
『物語を忘れた外国語』 黒田 龍之助著 新潮社 [言語学(外国語)]
ユーモアあふれるエッセイ(「読書案内」として読むこともできる)
ユーモアあふれるエッセイ。外国語能力を向上させようとするときに、用いる方法の主流は外国語学校と検定試験。しかし、著者は「物語を選」ぶという。著者にとっては「物語を読むことが食事をとるのと同じくらい自然なのである」。
「30代の終わりから40代の初めにかけて大学の英語教師に突然なってしまったとき、もちろん英語力をもっと上げなきゃと考えたのだが、そのとき始めたのはヘンリー・フィールディングの『トム・ジョーンズ』を原書で読むことだった」と記す。
そういう著者が、『物語を忘れた外国語』に偏向する世にあって、外国語にまつわる物語の数々を紹介していく。物語の中には、外国語・映画も入る。戯曲・シナリオも入る。著者の好みは喜劇であることが示される。シェイクスピアは『お気に召すまま』。版は“SHAKESPEARE MADE EASY”版が勧められる。その延長にある究極の(著者に合う)方法として「ニール・サイモン効果」について記される。
著者お勧めの外国文学・日本文学「読書案内」として読むこともできる。すべてではないが、小説、映画の簡潔な要約も示され、食指をそそられる。その意味において簡単な索引、一覧を付録として欲しかった。
2018年8月14日にレビュー
「熟語本位 英和中辞典 新増補版」斎藤秀三郎著 岩波書店 [言語学(外国語)]
「英語を本気で読めるようになりた」ければ・・
翻訳不能といわれたJ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を完訳した柳瀬尚紀氏推薦の辞書です。
「本気で英語を読めるようになりた」ければ、「この辞書の熟読を勧める。」と、氏は『辞書はジョイスフル』の中で述べています。
氏は、当該辞書を「高校時代、ふとんのなかにもトイレにも持ち込んで読んだ」そうですが、当時を振り返って次のようにも記しています。「筆者の場合、高校生や大学生の頃、この辞典のすごさは、のぞき見できたという程度でしかなかった。どうやらほんとうに理解できるようになったのは、翻訳の仕事を公にするようになってからである。」
氏は、当該辞書「序文にある『一見直チニ要領ヲ得ル訳語」のなんたるかをわかるには」翻訳者としての体験を相当積む必要があった、と記し、斎藤秀三郎の訳語は、古いようだが実は古くはなく、その理由は「日本語が生きている」からだ(第3章:血のかよった訳語をもとめて)とも記しています。
わたしは、1964年発行の当該辞書を持っています。外函は全面茶色にやけてしまいましたが、製本はしっかりしています。「英語を本気で読む」おつもりであれば、孫子の代まで残すつもりで購入するのも良いかもしれません。(但し、旧字旧かな表記で活字の組み方も親切なものではありませんので熟読するには相当の覚悟が要ります。)
因みに、著者斎藤秀三郎は、指揮者小澤セイジの恩師で謹厳の誉れ高い斎藤秀雄の父君です。
2006年1月18日にレビュー
『ことばはフラフラ変わる』 黒田 龍之助著 白水社 [言語学(外国語)]
著者の「比較言語学講義ノート」から生まれた本
2011年発行の『ことばは変わる』に加筆訂正し、「コーヒーブレイク」なる短いエッセイを入れ、組み替え、改題した新版。文章は、タテ書きとなって読みやすい。その内容はというと・・・
病気の先生のピンチヒッターとして、著者は「比較言語学」の講義を依頼される。しかし、「比較言語学」はタイヘンだ。多くの言語の知識が必要である。ギリシャ、ラテンに加えてサンスクリット語の知識も要求される。さらにゴート語に古代スラブ語も・・・。「そんな人、日本に何人いるのか。わたしはほとんどダメだ」と言いながら、著者は引き受ける。興味があるからだ。「そうか、単なる比較言語学というより、『複数言語学』というつもりで、複数の言語を対象とするときの考え方を紹介する授業にしたらどうだろうか。そうすれば、ヨーロッパ言語至上主義に陥る危険も、多少は回避できるかもしれない」と考えた著者は、伝統的な比較言語学の全体を一通り調べ、加えて歴史言語学、つまり言語を通時的に観点から概観し、部分的にその方法論も紹介し、表面的なことを全体的に語り、アジアの言語が専門の人にも有益な授業を目指すことにする。そして、共通のテーマは「言語の変化」とし、言語の変化はどうして、どのように変化するのか、それを比較言語学、歴史言語学だけでなく、さまざまな角度からアプローチする・・・。そのようにして、取り扱った講義とその中で学生に与えた課題とその応答が本書に示されている。
ことばがフラフラ変わることが漸次しめされていく中、著者もたいへんな重荷を背負っただけに、あちらこちらフラフラと話しを進める。「なんだか話しがずれてきた。要するに、言語は人間とは違うということをいいたいわけである。当たり前なのだが。」などとある。だが、そのズレが面白かったりする。たとえば、「わたしは人文科学が過去を見つめる学問だと考えている。現在を見つめる社会科学や、未来を見つめる自然科学に比べると、人文科学はなんとなく地味だなあと感じることがある。だが過去をきちんと整理しないで、やみくもに未来へ進むことがはたしていいことなのか。・・・」という論議もあれば、「振り返ってみれば、大学院で勉強したことのうち、主要なものの一つに研究史があった。どういう研究者が何を研究し、どのような業績を残したか。そういう人がどのような本や論文を書いて、そのうちどれが現在でも価値を失っておらず、さらには目を通すべきなのか。そういうことが、とても重要だった。人文系の大学院とは、こういうことを学ぶ場である。ところが外国語の場合、大学院で運用能力を伸ばそうと考えて進学する者がときどきいる。愚かである。」などという論議もある。本筋も面白いが、著者の人柄からでてくるユーモアと本筋からさまよい出たフラフラした論議が本書の魅力でもある。
ちなみに著者の講義はたいへん人気があったようだ。専門科目なのに受講生がふつうの10倍も集まり、「もしかして専門的でない、レベルの低い講義なのではないかという声が上がったようで、そのまま廃止となった。」という。おかげで、ほどよく専門的でポピュラーな講義を読むことができるのは結構なことである。実際のところ著者のいうように「言語に興味があるのは、専門家ばかりではないのだから」。
著者自身「本書を読了したからといって、比較言語学が分かったつもりになるのは非常に危険であることを、あらかじめ申し上げておきたい」といい、「さらに詳しく知りたい方」にお薦めする参考文献として(第1章末尾で)以下の本を紹介している。「このような良書の多くが絶版であるのに対して、入手可能な本にかぎってロクなものがなかったりするのが残念だ」と付言されている。「これまでの研究を完全に無視して荒唐無稽な論理を力ずくで押し付ける」「トンデモ本」が書店にいくらでも並んでいるそうなので、要注意ということでもある。(その説明は、本書2章でなされている)。
2018年3月27日にレビュー
歴史言語学序説 (1967年)
言語学の誕生―比較言語学小史 (岩波新書)
比較言語学入門 (岩波文庫)
比較言語学を学ぶ人のために
入門ことばの科学
「ムラブリ:文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと」伊藤雄馬著 [言語学(外国語)]
ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと(集英社インターナショナル)
- 作者: 伊藤雄馬
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2023/04/27
- メディア: Kindle版
レビューを書くにあたって、これはタイヘンだと感じている。内容が深いからだ。表面的には書籍副題どおり「文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと」である。だが実質的には、そんな半端皮相なものではない。もしかするとその深さを著者も自覚していないかもしれない。結果的にそのようになっているということだ。
ここで「ムラブリ」から教えられ学んだのは著者個人であるが、内容はもっと普遍的である。著者はいわば、今の時代や社会にズレや違和感を覚えるすべての人の代表である。また、そのような自覚を持たない人たちも含めてそうである。つまり本書は、評者はもちろん、既読未読のすべての人を巻き込み包含する(少々大袈裟だが)ブラックホールのような本だということだ。
そのように思うのは、評者もまたズレや違和感を、物質中心でお金をすべての尺度とするような現代社会に感じてきたからにちがいない。それを勝手に敷衍して普遍的などと言っているだけなのかもしれない。しかし、あながち評者の思いは外れていないように思う。
本書を読んだことは評者にとって「巡り合わせ」に感じている。ユング心理学でいうシンクロニシティーの世界である。本書を読んでいくと著者は繰り返し「運」に言及する。自分はたいへん「運がいい」という。実際、思いがけない出会いの数々によって著者の人生の方向が定まっていく。著者はそれにあらがうことなく従う。『森のムラブリ』という映画が製作されたが、その監督との出会いもそうだ。「お前何を言い出すのだ」と言われかねないが、鏡の中の鏡に映る自分を見るような際限のない入れ子構造のなかに入った気分なのである。著者のかざす鏡の中に組み入れられてしまった感がある。
著者の関心は言語と身体性の関係である。すくなくとも本書の核となるのはそれらである。著者が教えられたこととはムラブリの言語と身体性であり、著者はムラブリ語を習得するうちに身体性の変化を経験する。著者自身が日本に住まうムラブリになってしまう。
本書は表面的にはムラブリ語に惹かれて「文字も暦も持たない狩猟採集民」の中で暮らし始めた言語学者の一記録にすぎない。しかし、本書を手にして読む「運のいい」方の中には、いわば「巡り合わせ」の連環に組み込まれ巻き込まれて学校や会社を辞める人が多数出るように思う。それだけ現代において感化力の強い本であるように思う。
『言葉から社会を考える:この時代に〈他者〉とどう向き合うか』 東京外国語大学言語文化学部編 白水社 [言語学(外国語)]
「東京外国語大学」というと、外国語しか学んでいないというイメージを与えてしまうことがあるが・・・
東京外国語大学で教授されている専攻言語27種について、それを取り巻く社会・人・文化を、「語学研究所」の先生方が(各言語について3~4ページで)エッセイ風に解説したものと、学長、言語文化学部長ら5人による座談会が掲載されている。座談会では、「蕃書調所」にまで遡ぼる東京外大の歴史・沿革、新渡戸稲造、二葉亭四迷、(東京外大の「中興の祖」とも呼ばれる)浅田栄次のこと、浅田が唱えた「通辯たるなかれ、西洋の文物を学び世界的人物と作れ・・」の意味、対談者各人が「それぞれの言葉との出会いについて」語るなどの内容。(以下、引用)
《二葉亭四迷は、北東アジアの利権を帝国日本と争っていたロシアを倒す一助になろうとし、敵を知るために露語科に入学したのに、学ぶうちに反対にロシア文学に魅せられてしまった。ミイラ取りがミイラになったしまうわけです。・・(中略)・・二葉亭も、ロシアを「敵」と見なす軍国主義的価値観から、ある種の平和主義に転じたと考えることもできます。ロシア語を学ばずにたとえば英語を通してだけロシアを学んでいたとしたら、あそこまでは行かなかったのではないかと思います》。(座談会「言語と文化の多様性を生きる」中の沼野恭子談から)
《外国語を学ぶ意義// ここまで挙げた「くる」と「いく」や、やりもらい、受身の表現の使い方から、中国語には外から全体を眺めた叙述をする傾向があり、日本語には人の内面から物事を見つめる叙述をする傾向がある、という違いがあることが見て取れる。同じアジアに隣り合って位置しながら、中国語と日本語とで、世界の捉え方が同じでないことを認めざるを得なくなる。/ ここで特筆すべきは、彼我の世界観がこのように異なるのを知ることができたのは、中国語を学び、日本語との違いに気づいたからに他ならない、という点である。中国語を学ばなければ、こうした気づきはなく、中国語で世界がどのように捉えられているかを知ることもなかったのである。/ ここに思い至れば、外国語学習を取り巻く構図が、母語を異にする者同士、互いに英語を学んで英語で意思疎通を図ればよい、といった単純なものでは済まなくなることが浮かび上がってくる。つまり、中国語を学んでみないと、中国人の世界の見方が日本人と異なることを体感することはできないのである。互いの感覚の違いを知った上でつきあうほうが、よりよい関係を結べるのは言うまでもない。/ 複数の言語を学ぶということの意義は、いろいろあろうが、こういったことも1つに数えられる。多くの異なる言語を学ぶにつれて、より多くの異なる世界の捉え方を知ることができるようになり、複眼的な見方、柔軟な感性を身につけることができるようになるのである》。(「同じ世界の異なる見方」加藤晴子筆から)
《「東京外国語大学」というと、外国語しか学んでいないというイメージを与えてしまうことがあるが、学ぶのは言語だけではない。学生は、言語文化学部では世界諸地域の言語と文化を、国際社会学部では世界著地域の社会の仕組みを専門的に学修する。ただ専門知のベースには必ずその地域の言語が礎としてある。それが最大の特徴なのだ」。「興味深いのは、それぞれの言語を学ぶうちに学生たちの発想や行動様式がだんだんその言語が話されている地域の人々のものに似ていくことだ」》。(武田知香言語文化学部長筆部分から)
2017年1月26日にレビュー
『翻訳の秘訣』中村保男著 新潮選書 [言語学(外国語)]
またもや風呂に入って読んだ話。
上記書籍を古書店で入手して放りっぱなしになっている。昭和57年の初版本で、中に『新潮社 新刊案内 6』が入っていた。「今月の新刊」に紹介されている著者らはすべて故人となって、まるで墓標だ。裏面には著者の写真付きで『完結版 新田次郎全集 全11巻 新潮社版』の広告が出ている。
中村保男と聞くと、当方はすぐにコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』を思い出す。その翻訳者として福田恒存とともに名を連ねていた。実質的な翻訳者は、氏であったと思う。福田が『あとがき』にそのように記していたように記憶する。
入手したままそのままになっていた古書が、風呂でよみがえる。文章を見ながら、なんとなく福田恒存の影を見る思いがする。師弟関係による影響だろうか。謹厳かつ軽妙の風がある。だから文系はしようがないと養老孟司先生に言われそうだが、直感である。
まず、『はじめに』だけ読んで、風呂から上った。
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養老孟司=野蛮人説?
(福田恒存著「人間の生き方、ものの考え方」から)
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-05-04
『ウィキペディア』中村保男の項
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%BF%9D%E7%94%B7
『同時通訳者が教える 英語雑談の全技術』木内 裕也著 [言語学(外国語)]
“Small talk is not small.”
本書は、English small talkの本。“small talk”は、辞書的には、「雑談、世間話」である。『あとがき』には、“Small talk is not small.”(雑談は大事である)の引用があり、「雑談は人間関係を構築するうえでとても重要な役割を持」つとの説明がある。
タイトルにある「全技術」とは、目次にある 1:英語で「自己紹介」をする技術、2:英語で「話を引き出す」技術、3:英語で「雑談する」技術、4:英語で「話を広げる」技術、5:英語で「好印象を残す」技術、6:雑談で使えるひと言フレーズ を、もって「全技術」というようだ。
『はじめに(簡単な英語で「雑談力」が上がる方法 自分の英語力ではなく、「相手のこと」に意識を向ける』には《英語の雑談、もしくはあらゆるコミュニケーションの基本を1つお伝えしたいと思います。/ その基本とは、「相手を大切に思うこと」です》とあって、さらに「一期一会」の思いをもつよう勧められている。本書全体を一貫して流れている考えは、そのことに尽きるように思う。
英語で他者と関わる際のマナー、避けたいことなど、知っているつもりで知らないでいたことを教えられた。挨拶をはじめとして、相手との良い関係が構築できなければ、どんな会話も発展させることなどできない。取り上げられている雑談ネタの提案も有用。書籍レイアウトも、行間、余白を多めにとって、見やすい。
2016年12月13日にレビュー
CD付 耳と口が「英語モード」になる 同時通訳者のシャドーイング
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/中経出版
- 発売日: 2015/02/26
- メディア: 単行本
『寝るまえ5分の外国語:語学書書評集』 黒田 龍之助著 白水社 [言語学(外国語)]
101本目の書評、お引き受けいたしましょう
本書は、語学書の書評の集成。「白水社創立101年目を記念して、101本の書評を目指したのだが、実際にはコラムを合わせても100本しかない。最後の101本目は、自分で書いてみていただけないだろうか(「おわりに」)」と、著者は、読者に呼びかけている。おわりまで、ずっと読んでくると、「ならば、では、101本目、お引き受けいたしましょう」という茶目っ気を起こさせる内容だ。
当初、書籍タイトルを見て、「『5分』で寝つく助けになるのではないか」と思ったが、残念なことに、そうならない。目がさえるというほどでもないが、全然その点、有効ではない。睡眠薬代わりにはならないので、その目的で読もうという方はご注意されたし。
本書は5部構成( 1:語学書は書評できるのか、2:語学書のことば、3:失われた語学書を求めて、4:101年目の語学書たち、5:隣の語学書は赤いか青いか )となっている。書評は、1冊につき、おおむね見開き2ページにまとめられ、巻末には、書評された書籍の表紙写真が紹介されている。
たとえば、『フィリピノ語文法入門』の書評では、『王道はいつでも同じ』とタイトルされ、著者が「すみずみまで暗唱するまで学んだ『標準ロシア語入門』」との同一性が強調され、《つまり本書は語学書の王道なのである。// だとしたら勉強法も想像できる。やり方はこうだ。まず単語および例文を発音して、先生から丁寧に直してもらう。音読しながら例文すべて暗記する。簡単な単語テストで綴りを確認して、それから音声教材を聴きながら和訳練習。さらにはその逆訳ということで、日本語を読み上げてもらってそれを外国語に直す。最後は学習した例文を使って会話をする》。
しかし、そのような語学勉強法ばかりに焦点が当てられているわけでもない。関連言語の特徴、学ぶうえでの苦労談などがユルイ縛りで記されていく。ユーモアもあって、なかなか楽しい。そんな中には、厚かましいネコの話や、ビール大好きのロンさんの話もでてくる。
異色の本としては『カモ少年と謎のペンフレンド』という小説が取り上げられている。著者はいう「外国語学習のやる気を起こさせる本はすべて語学書である。そう考えれば、本書は紛れもなく白水社の語学書の一冊だ」とある。
そういうことであれば、本書も紛れもなく語学書の一冊である。多言語を学習して、新たな視点を得、他国の文化を知りたいと願う人なら、だれでもやる気を起こさせられ、益を得られるにちがいない。
2016年10月20日にレビュー
「ことばへの異常な愛情」
黒田龍之介先生講演会・講演録
http://www.sanshusha.co.jp/kuroda/index.html
カモ少年と謎のペンフレンド (白水uブックス―海外小説の誘惑)
- 作者: ダニエル ペナック
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2007/06
- メディア: 単行本
辞書なしで英語が読める―童話、旅行ガイドから推理小説まで (カッパ・ブックス)
- 作者: 藤田 悟
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 1982/05
- メディア: 単行本