「ムラブリ:文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと」伊藤雄馬著 [言語学(外国語)]
ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと(集英社インターナショナル)
- 作者: 伊藤雄馬
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2023/04/27
- メディア: Kindle版
レビューを書くにあたって、これはタイヘンだと感じている。内容が深いからだ。表面的には書籍副題どおり「文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと」である。だが実質的には、そんな半端皮相なものではない。もしかするとその深さを著者も自覚していないかもしれない。結果的にそのようになっているということだ。
ここで「ムラブリ」から教えられ学んだのは著者個人であるが、内容はもっと普遍的である。著者はいわば、今の時代や社会にズレや違和感を覚えるすべての人の代表である。また、そのような自覚を持たない人たちも含めてそうである。つまり本書は、評者はもちろん、既読未読のすべての人を巻き込み包含する(少々大袈裟だが)ブラックホールのような本だということだ。
そのように思うのは、評者もまたズレや違和感を、物質中心でお金をすべての尺度とするような現代社会に感じてきたからにちがいない。それを勝手に敷衍して普遍的などと言っているだけなのかもしれない。しかし、あながち評者の思いは外れていないように思う。
本書を読んだことは評者にとって「巡り合わせ」に感じている。ユング心理学でいうシンクロニシティーの世界である。本書を読んでいくと著者は繰り返し「運」に言及する。自分はたいへん「運がいい」という。実際、思いがけない出会いの数々によって著者の人生の方向が定まっていく。著者はそれにあらがうことなく従う。『森のムラブリ』という映画が製作されたが、その監督との出会いもそうだ。「お前何を言い出すのだ」と言われかねないが、鏡の中の鏡に映る自分を見るような際限のない入れ子構造のなかに入った気分なのである。著者のかざす鏡の中に組み入れられてしまった感がある。
著者の関心は言語と身体性の関係である。すくなくとも本書の核となるのはそれらである。著者が教えられたこととはムラブリの言語と身体性であり、著者はムラブリ語を習得するうちに身体性の変化を経験する。著者自身が日本に住まうムラブリになってしまう。
本書は表面的にはムラブリ語に惹かれて「文字も暦も持たない狩猟採集民」の中で暮らし始めた言語学者の一記録にすぎない。しかし、本書を手にして読む「運のいい」方の中には、いわば「巡り合わせ」の連環に組み込まれ巻き込まれて学校や会社を辞める人が多数出るように思う。それだけ現代において感化力の強い本であるように思う。