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「博物館と文化財の危機 」人文書院 [人文・思想]


博物館と文化財の危機

博物館と文化財の危機

  • 出版社/メーカー: 人文書院
  • 発売日: 2020/02/18
  • メディア: 単行本


現場、学芸員、人文科学の置かれている状況が分かります

本書は2018年11月17日、京都大学人文科学研究所人文研アカデミー 2018「シンポジウム 博物館と文化財の危機 ー その商品化、観光化を考える」の成果をまとめたもの。

以下、評者のことばで全体をまとめると・・(だいぶ乱暴な表現になりますが・・)

博物館を人集めのパンダとするなという話が載せられている。文化財を保存、修復、展示して、後世に残す役割をもつ博物館を、人寄せとカネもうけの道具としようという政治的動きがある。文化財を活用して、地域おこしの道具としようという動きだ。それが文化財保護法の改正というカタチを取った。そのために学芸員の本来の仕事がないがしろにされ、文化財というモノの保存も危ういことになっている。また、世界遺産の名目で旧弊が蘇りつつある。文化財による日本起こし、観光化の名目で、神話、伝説でしかないモノが事実であるかのごとき取り扱いを受ける事態に立ち至った。見知らぬ動物に人が興味をもって集まるのは自然だが、白熊に黒い着色をほどこしてパンダとして売り出し人を集めるのはいかがなものかと訴えられている。

具体的には、世界遺産とされた「仁徳天皇陵古墳」をあげることができる。本文から引用してみる。〈大正期の津田左右吉が、古事記・日本書紀は、5~7世紀の政治思想を反映したものにすぎないと論証した。戦前期には津田の記紀批判が公論にならなかったものが、戦後の歴史学の改革の中で、アカデミズムや教育の場では通説になってきた。この佐藤信氏の発言は、戦後改革を経てきた戦後歴史学・考古学の営みを否定するものではないか?文化財の観光化や活用のためには、歴史学の実証の魂を売っても良いのか?「仁徳天皇」と王墓が結合する呼称は、天皇制が強大であり「万世一系」神話を創りだした。古代と近現代の天皇制による支配の物語である。ふたたび1940年の国定教科書のように、国民道徳のチャンピオンの仁徳天皇が「かまどの煙」を国見する歴史意識を、肯定するのか(図7)。しかも学者として、「仁徳天皇陵古墳」の名称を、自らの論文では使用することはない。(p183,184)〉

上記引用にある仁徳天皇が国見をする(図7)は、〈「尋常小学国史 上巻」文部省 1935年〉によるもので、それは本書・裏表紙にも図示されている。それは、アメリカとの戦争をしていたころ用いられていた教科書で、敗戦後、当時の子どもたちが墨でバッテン消去(いわゆる「墨塗り」)して否定させられたものだろう。解剖学者の養老孟司先生が繰り返し語る戦争体験である。そのようにしてまで一度否定したものを、根拠がナイと承知しながらも再び肯定する動きが現にある。博物館と文化財の商品化観光化志向は、人文科学の否定にもつながる危険大である証拠と言える。

博物館、学芸員、人文科学の置かれている現状の分かる本で、タイトル以上に得るものがあった。

2020年3月27日にレビュー

戦争とは何なのか? 焼け跡世代からのメッセージ~養老孟司
プレジデントFamily
https://president.jp/articles/-/15826

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記憶術全史 ムネモシュネの饗宴 (講談社選書メチエ) 桑木野 幸司著 [人文・思想]


記憶術全史 ムネモシュネの饗宴 (講談社選書メチエ)

記憶術全史 ムネモシュネの饗宴 (講談社選書メチエ)

  • 作者: 桑木野 幸司
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2018/12/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


洪水のように押し寄せる知識情報と格闘する点で参考になる

タイトルに、記憶術「全史」とあるが、「本書が主なターゲットとするのは」、記憶術が「華麗な復活を遂げ」た「ルネサンスあるいは初期近代(15~17世紀初頭)と呼ばれる時代」におけるそれである。

ルネサンス期、古代ギリシャ・ローマの古典的名著が印刷出版され、教養人がそなえるべき知的スタンダードが形成され、自然科学や航海術が発達してなされる新発見、それらの知見を論じた学術書、お手軽な通俗文学の流行、時事問題を速報するニュースメディアの萌芽、突如出現した情報洪水・・・。

「いつの時代も情報を制覇したものが世を支配する」。知識情報の洪水、爆発的な増大、それらを蒐集整理し活用できなければ、(もとより勝ち目のない戦いではあるが)支配者どころか奴隷となる。知識情報と格闘する点で、当時は、今日と対応する。それゆえ、当時の人々の労苦は、今日参考になる。

紙が潤沢に手に入り、記録することによって、アタマに外に記憶媒体をもつことができるようになる。印刷術が発明され、印刷された書籍を安価に入手できるようにもなった。今では、電子デヴァイスの中、外部の(クラウドなど)仮想空間に知識情報を置いておくこともできる。人は安心して忘却できるようになった。自分のアタマはカラッポにしておいて、検索し呼び出せばそれら忘却した知識情報を使いまわしできもする。なんと便利になったことか。

ところが、古代、中世の人はそうはいかない。それで工夫する。術を設ける。アタマの中に架空の場所を設け、その場所に記憶したい物事を置いていく。想起しやすいように、置いた物事のイメージを増強賦活させる工夫をする。そして、それを順にたどって弁論などに用いた。そうした営みが繰り返される中、ルネサンス期には、百科事典なみの情報量を、アタマの中に置く工夫もなされる。それを図示するなら(実際そのようなイラストが残されているのだが)、カテゴリー分類してツリー状に配置したモノやフローチャートのようなモノに近くなる。

年齢とともに衰えてきた記憶力を増強するにいいだろうと本書を手にした。記憶術は有効だろうと思ったのだ。しかし、術を身につける際、それ以前に役立つ鍵のようなものを本書をとおして知ることができたように思う。

馥郁とした文章である。単なる学術論文でなく、文学的芳香を放つている。ユーモアも多分にある。嗅覚と記憶は深くかかわると聞く。本書のエッセンスが記憶に自然と留まるといいのだが、くり返し読む必要があるだろう。また、くり返し読むほどにじわじわ得るものがあると直観する。

2019年2月18日にレビュー

『クラウド時代の思考術―Googleが教えてくれないただひとつのこと―』 ウィリアム・パウンドストーン著 青土社
https://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2017-03-17


インフォグラフィックスの潮流: 情報と図解の近代史

インフォグラフィックスの潮流: 情報と図解の近代史

  • 作者: 永原 康史
  • 出版社/メーカー: 誠文堂新光社
  • 発売日: 2016/02/01
  • メディア: 単行本



THE BOOK OF TREES―系統樹大全:知の世界を可視化するインフォグラフィックス

THE BOOK OF TREES―系統樹大全:知の世界を可視化するインフォグラフィックス

  • 作者: マニュエル・リマ(Manuel Lima)
  • 出版社/メーカー: ビー・エヌ・エヌ新社
  • 発売日: 2015/03/10
  • メディア: ペーパーバック



クラウド時代の思考術―Googleが教えてくれないただひとつのこと―

クラウド時代の思考術―Googleが教えてくれないただひとつのこと―

  • 作者: ウィリアム・パウンドストーン
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 単行本



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『魔女・怪物・天変地異(筑摩選書)』 黒川 正剛著 [人文・思想]


魔女・怪物・天変地異 (筑摩選書)

魔女・怪物・天変地異 (筑摩選書)

  • 作者: 黒川 正剛
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2018/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


「好奇心」評価の変遷と近代的精神

「驚異」と「好奇心」が本書のキーワードになっている。それらは、知識習得と蓄積のエンジンと言っていい。その歴史を古代に遡って戻ってくるといった内容だ。本書副題にある「近代的精神はどこから生まれたか」を手っ取りばやく知りたければ、最終章を読めばいい。しかし、やはり最初から読んでいった方が、人類の精神史を辿り、たどり着いた達成感を持てる。

その旅、道行たるや迂遠である。前4世紀のアリストテレスの脅威観について記される。「驚異することによって人間は、(・・・)知恵を愛求し(フィロソフェイン・哲学し)始めた(「形而上学」)」の引用もある。1世紀・ローマの学者プリニウスの著作『博物誌』から、自然と脅威について示される。それは、「約1500年後の近世の驚異関係文書」の「内容と酷似して」「その影響の大きさを示す証左である」の記述もある。しかし、その『博物誌』においてプリニウスは、インドとエチオピアを混同したり、今日も実在する「博物」(人や動物など)を「怪物」のように描いている。伝聞と想像力がそうさせたようだ。

その影響のもとに西暦4世紀のアウグスティヌスも置かれ(その「知識」を受け入れ)ていたことが示される。しかし、アウグスティヌスは、好奇心、「単なる知識欲」を非難されるべきものとみなす。それは聖書・創世記のエデンの園でエバが蛇(悪魔)にたぶらかされるキッカケとして捉えられた。また、「高慢」とも関係づけられてのことだ。さらには、「あくなき好奇心の塊」のような人物でありながら「好奇心断罪派」であった旅行記作家アンドレ・テヴェ(16世紀)のこと、「近代外科学の祖」アンブロワーズ・パレ(16世紀)のことなど記されていく。またさらに、「降霊術師」「男色家」で悪評高かったファウスト博士の話もでる。魔女狩り絶頂期(1580年代末)に高評を博した『ヨハン・ファウスト博士の物語』は、ファウストを「男性の魔女」、貪欲に知識を求める好奇心の持ち主として描き、そのイメージを構築した。魔女も魔術師も「神の定めた人間が知ることを許された分限を超える越権行為とみなされていたわけである。それは悪魔の領域に入り込むことにほかならなかった」の記述もある。そして、「近世ヨーロッパにおける近代的学問の展開に多大な役割を果たし、近代科学の方法を確立し、それによって自然を支配することを主張した」フランシス・ベイコンらの話となる。

全体の内容を煎じつめれば、悪徳と見なされた好奇心が称賛すべきものと見なされるようになる変化の過程・歴史が示されていると言っていいと思うが、本書の醍醐味は、その過程そのものにある。よくもこんなツマラナイことを「知識」と称していたことかと驚嘆する。どれほどヒドイものかはご覧いただければ分かる。そういう意味でも読むことをお勧めしたい。それは21世紀の今日、身の回りに「怪物」や「魔女」をうみ出さないための助けとなるにちがいない。

2018年10月16日にレビュー

子どもは40000回質問する あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力

子どもは40000回質問する あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力

  • 作者: イアン・レズリー
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2016/04/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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『内藤湖南: 近代人文学の原点』 高木 智見著 筑摩書房 [人文・思想]


内藤湖南: 近代人文学の原点 (単行本)

内藤湖南: 近代人文学の原点 (単行本)

  • 作者: 高木 智見
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2016/11/15
  • メディア: 単行本


かくある以上、やはり、読まずばなるまい

内藤湖南の名を冠した全集が出ていることは知っているが、その中身は知らずにきた。本書副題には「近代人文学の原点」とある。「原点」を無視するわけにはいかない。そして、本書の発行元は、全集と同じく筑摩書房である。さらに、本書は「湖南生誕150年記念刊行」とある。であれば、本書がいいかげんな本であろうはずがない。きっといい入門書となることであろうと手にした。目をとおしての印象は、「湖南礼賛」の気味があるものの、たいへん緻密に湖南の仕事とその方法が論じられている。しかし、「湖南礼賛」と感じるのは、湖南の全仕事に直接実際に触れていない評者の方に問題があるのだろう。

著者の問題意識は次のような点にある。《多面的な知的巨人・内藤湖南を内側から捉える試みとして、その学問と思想の核心部に位置する歴史学と儒家思想に着目し、特にその「面白さ」に焦点をあてて考察を進めていきたい。すなわち、湖南の文章はなぜ面白いのか、湖南はいかにしてそれらの文章を書いたのか、さらにはどうすれば湖南のように面白い歴史叙述が書けるのか、といった単純にして素朴な問題に解答を与えてみたいのである(序章「湖南の実像をあるがままに捉える」)》。

著者は、そのような問題意識のもと、湖南の著述の具体例を、日中関係論、東西文明関係論、文化論、個別研究、学問論のそれぞれについて見た後、概括して次のように述べる。《 湖南の著述は、中国史に関して学ぶに足る数多くの個別的見解を含んでいる。のみならず、中国とは何か、日本とは何か、両者の関係は如何にあるべきか、人間社会はどこへ進もうとしているのか。歴史を理解するとはいかなることか。経世の志と学問はどう関わるべきか。文化の大衆化とエリート主義のより良い関係とは如何にあるべきか、などなど、現代の我々が抱える多くの根本的な問題を明確につかみ取り、先駆的に鋭くまた深く考察している。それらは読み手の問題意識に応じて、教訓、指針、警告、叱責、激励など様々な意味を有する見解として受け取ることができる。だからこそ、今なお読み継がれているのであり、読み継がれねばならない・・(序章「今こそ内藤湖南」)》。

松岡正剛は、湖南の『日本文化史研究』を評するに先立ち「秋田に生まれ、山陽と松陰に学び、 東洋と日本を貫く方法を求めて、 支那学と日本文化史研究を研鑽しつづけた巨人。 富永仲基を発見して、加上の論理に着目し、 空海にも道教にも、書道にも香道にも、そして山水画の精髄にも通暁した目利きの巨人。平成混迷の、日中怪しき混雑の時、この「歴史と美の崇高」を見抜いた内藤湖南を、 諸君はなぜ読まないのか(『松岡正剛の千夜千冊』1245夜)」と記している。 かくある以上、やはり、読まずばなるまい。

2017年3月7日にレビュー

日本文化史研究
内藤湖南
講談社学術文庫 1976
(松岡正剛の千夜千冊)
http://1000ya.isis.ne.jp/1245.html


目次は、

序章 今こそ内藤湖南―湖南とは何者か
1今なぜ湖南か
2不朽の理由
3本書のねらいと各章の概要

第1章 中国学者・湖南の誕生―湖南はいかにして「湖南」になったのか
1早期湖南へのアプローチ
2『全集』に収録されなかった早期の論考
3未収録文における湖南の思想的原点
4沸々たる激情

第2章 孟子と湖南―早期湖南はなぜ激越だったのか
1過激で熱く純粋で汚れのない青年
2湖南の刺客論
3理想社会をいかに実現するか
4早期湖南の処世観と孟子
5なぜ孟子の思想なのかーー幕末維新と孟子

第3章 歴史認識とその背景―湖南はなぜ面白いのか
1湖南史学に関する3つの疑問
2湖南の面白さ
3湖南の歴史認識・ものの見方
4変化の思想の背景
5天命を甘受しつつも努力を惜しまぬ人

第4章 湖南史学の形成―面白い歴史はいかにして書かれたのか
1湖南史学を自己のものとする
2対象論
3史料論
4認識論
5表現論
6湖南史学の根本にあるものーー他者への共感と同情

第5章 湖南史学の核心・心知―テキストはいかに理解するのか
1「支那人に代わって支那の為めに考へる」再考
2湖南をどう読むか、湖南はどう読んだか
3いかにして心知するのか
4心知を基盤とする文化的共同体

第6章 湖南を以て湖南を読む―湖南執筆文をいかに鑑別するのか
1未完の全集ーー史料論的検討の必要性
2湖南執筆文の史料論的検討
3研究の深化が全集を完成させる

終章 湖南の面白さの意味―誠と恕の精神
1湖南の至誠が読者を動かす
2恕の精神と歴史の追体験
3誠・恕と現代社会
4理想の追求と不断の努力

あとがき 初出一覧 人名索引



日本文化史研究(上) (講談社学術文庫)

日本文化史研究(上) (講談社学術文庫)

  • 作者: 内藤 湖南
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1976/10/08
  • メディア: 文庫


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《 「怪異」の政治社会学 室町人の思考をさぐる 》高谷 知佳著 講談社選書メチエ [人文・思想]


「怪異」の政治社会学 室町人の思考をさぐる ()

「怪異」の政治社会学 室町人の思考をさぐる (講談社選書メチエ)

  • 作者: 高谷 知佳
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/06/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


中世のブラックボックスに手を突っ込み、中身を引き出して見せたチカラ技

評者だけのモノではないと思う。中世には、暗く、どろどろしたイメージがある。中身がよく分からないゆえの薄気味のわるさである。著者は、多くが敬遠する中世のブラックボックスに手を突っ込み、ソレを引き出して見せる。化け物屋敷に押し入って化け物をつかみだす。つかみ出されたモノは、実は、ただのタヌキでしたというわけにはいかない。なかなか、一筋縄ではいかないシロモノだ。それゆえにも、明るみに出して、晒した功績はおおきい。

著者の「専攻は法制史、都市法をほとんどもたない日本中世都市に関心をもつ」とある。まさに、本書は著者の関心の中心にあるものにちがいない。室町時代の京の都と支配者階級、支配者から実利と保護を願う寺社階級、そして、安寧秩序を求める庶民たち、著者はそうした三者の織り成す「思考」を明るみにだす。そして、その思考をさぐる中心にあるのが「怪異」である。

怪異出現のメカニズムが明らかにされる。《怪異のメカニズムの基本形は「収拾される怪異」すなわち「寺社が政権にたいして怪異を発信し、政権がそれを収拾する」というものであった。そこから、社会の存在感が大きくなった結果として「風聞としての怪異」すなわち「『怪異とはなにか』が社会の共通理解になり、寺社からの発信や政権からの収拾もないまま、社会の中で怪異の風聞が拡散される」という変化が生じた。// さらにその延長線上に、「寺社が、政権よりも、怪異の風聞を拡散するようになった都市社会に、信仰や寄進といった実利を求めて戦略的に怪異を発信する」という派生形があらわれてきたのである。これを「都市社会に宣伝される怪異」と呼びたい。// 収拾される怪異、風聞としての怪異、そこから派生した、都市社会に宣伝される怪異。室町期の京都には、互いに影響を与え合いながら、この三つが平行してあふれたのである》。そして、やがて、それは収束し、中世は終焉にいたる。その過程もつづられる。

応仁・文明の乱の頃のもようも記されている。馬琴の『南総里見八犬伝』における記述を思い出しながら読んだ。額絵から抜け出た虎を退治する話や小さな祠への庶民の信仰のことなど、伝奇的物語の舞台に中世はやはり似つかわしく感じた。まだ、よく消化できていない。咀嚼すらできていないが、中世に生きた先祖の思考の在り様から得られるものは、たいへん大きいと感じている。そして現在、今様の「怪異」譚がうごめいていないか警戒の必要性も・・・。

2016年9月1日にレビュー

南総里見八犬伝 全10冊 (岩波文庫)

南総里見八犬伝 全10冊 (岩波文庫)

  • 作者: 曲亭 馬琴
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1995/07
  • メディア: 文庫



日本法史から何がみえるか -- 法と秩序の歴史を学ぶ

日本法史から何がみえるか -- 法と秩序の歴史を学ぶ

  • 出版社/メーカー: 有斐閣
  • 発売日: 2018/03/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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『漢字廃止の思想史』 安田 敏朗著 平凡社 [人文・思想]


漢字廃止の思想史

漢字廃止の思想史

  • 作者: 安田 敏朗
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2016/04/18
  • メディア: 単行本


いま現在の漢字をふくめた日本語表記全般のあり方、そして日本語そのもののあり方を問いなおすことにもつながる

たいへん硬(固)そうなタイトルで、面倒くさい印象があるが、その実そうでもない。これはひとえに著者の人柄によるもののようである。ご本人に直接会ったことがないので、なんとも言えないが、文章から推してそう思う。

感覚的に漢字を用いる社会慣習にふれたあと、書籍『はじめに』部分に著者の執筆動機が示されている。《それならば、感覚的ではなく、ある理屈のもとで漢字をつかわないようにしようとした人びとの依拠した論拠をあきらかにしてみたい、というのが本書を書こうと思った動機である》。//《それに加えて、漢字廃止論が、いま現在漢字をつかっているというだけの理由で不当におとしめられているように感じるのも執筆動機のひとつである。漢字擁護の理論がただしいから漢字廃止論が不要というわけでもあるまい。漢字をつかう側とて、右にみたように確固たる理論にもとづいてつかっているわけではないのであるから、いってみれば、感覚的に漢字が選択されてきただけなのである。しかしながら、感覚的であるからこそ、それが批判されるとムキにならざるをえなくなるのではないか》。// 《一方で漢字廃止論も絶対的ただしさをもった理論とむすびついていたわけではない。おおまかな見通しを記しておけば、時代時代の先端的思想とむすびついて、ある場合には時局と迎合するような形で大きな力をえたときもあった。おなじ時代でも、政治的に好ましくないとされた思想と結びついて被害を被ったこともあった。さらには依拠した思想の賞味期限がくれば、あるいはそれが実現したら、漢字廃止の実現がなされないまま、空虚なスローガンと化してしまった場合もあった。本書ではカナモジカイの主張と能率(=日本語の機械化)がむすびついており、この能率の主張は産業化社会において有効でありつづけているからである。たとえばワードプロセッサにおけるかな漢字変換の技術が確立されなかったとしたら、情報化社会にあって、パソコンでうつ日本語のあり方はどうなっていただろうか》。// 《くわしくはこれから延々とつづく本文を読んでいただくほかはないのであるが、漢字を廃止しようとした人たちが何を考えていたのかをしることは、いま現在の漢字をふくめた日本語表記全般のあり方、そして日本語そのもののあり方を問いなおすことにもつながるであろう》。

こうして引用筆写(?)しながらも感じるのは、漢字で表記すべきところを著者は漢字で表記せず、かな文字を多用していることである。その点、書籍『おわりに』最末尾で著者は次のように弁解(?)している。《ここまで書いてきて最後にことわるのも気がひけるが、漢字がなくなればよい、と考えているわけではない。権威とか伝統とか、あるいは「日本人の心性」とか、よくわからないものにまどわされることなく、もっと気軽に、つかったり、つかわなかったりすればよいのだ、という拍子抜けしたことをいいたかっただけなのである》。

たいへん「拍子抜け」する結語ではあるが、中身は充実している。第1章『漢字廃止・制限論をどうとらえるか』で、『日本語が滅びるとき』(水村美苗 ちくま文庫2015)、『愛と暴力の戦後とその後』(赤坂真理 講談社現代新書2014)、『漢字論ー不可避の他者』(子安宣邦 岩波書店2003)、『漢字と日本人』(高島俊男 文春新書2001)を、次のように批判するだけのことはある。《水村にしても、赤坂にしてもそうなのだが(それをいえば、子安も高島も同様であるが)、不思議なことに漢字廃止を主張する側の論拠をきちんと把握したうえでの批判ではない。漢字廃止という目的に注目して批判するのみで(子安や高島はそうではない)、そうした主張の背景をふまえたものではない。・・略・・したがって、その分だけ漢字廃止・制限論はより対抗的で説得的な理由を探してこなければならなくなる》。

第2章『文明化の思想』、第3章『競争の思想ー国際競争と産業合理化のなかで』、第4章『動員の思想ー能率と精神のあいだ』、第5章『革命の思想ーマルクス主義という「応世」』、第6章『草の根の思想ー「昭和文字」の射程』、第7章『総力戦下の思想戦ー標準漢字表をめぐる攻防』、第8章『それぞれの敗戦後』と章はつづく。

「漢字リテラシー(読み書き能力)」を獲得することと「権力」との関係。「権力」と「伝統」さらには「日本人の心性」の関係の論議を興味ぶかく読んだ。読み書き能力だけでなく、知識全般に置き換え可能に思え、変えたくても変えられないもの(たとえば、原子力政策)を想起させられたりもした。なんでも許容するかのように振れ幅の大きな、説得の根拠をもとめて貪婪な(言い換えれば「硬(固)くない」)著者の論議の硬(固)い中身から得られるものは多いように感じている。

2016年7月5日レビュー
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『創世記と地質学―19世紀の科学思想とその神学的背景』 チャールズ・C. ギリスピー著  [人文・思想]


創世記と地質学―19世紀の科学思想とその神学的背景

創世記と地質学―19世紀の科学思想とその神学的背景

  • 作者: チャールズ・C. ギリスピー
  • 出版社/メーカー: 晃洋書房
  • 発売日: 2016/03
  • メディア: 単行本


「自然神学が表だった時代のイギリスの物語」(1790ー1850年間のイギリスにおける科学思想、自然神学および社会的見解の関係の研究)

学際的な(地球)科学史。読み物としてもおもしろい。

当初、聖書の『創世記』に記述されているノア、アブラハムといった人物たちにまつわる土地をめぐる論考で、「聖書考古学」に結びつくものか・・と予想したのだが、副題(原著)に「1790ー1850年間のイギリスにおける科学思想、自然神学および社会的見解の関係の研究」とあるように、実際の中身は、ダーウィンが『種の起源』を発表する以前、(つまり、基本的に、神:創造者の存在を人々が信じ、聖書の道徳基準にそって人々が生活し、神の存在を疑うなど罪悪とみなされていた頃)、翻訳者の言によれば「自然神学が表だった時代のイギリスの物語」で、「地質学、地球の歴史、科学と宗教とのかかわり、英国史、聖書の創世記との関わりを示してくれている」とある。

原著は、1951年、まだ「科学史が専門分野としてまだ十分に認知されていない」頃、発行され、1959年に「古典的名著しか入らないハーパー社のトーチブックス・シリーズとして」再販され、そして、1994年にルプケという科学史家から「科学史分野の名著と再評価され」た、「地球科学の歴史を始めて本格的な歴史記述とした先駆的業績」。翻訳した理由は「自然神学を紹介し」「われわれ日本には、馴染み薄い見地に接することで、科学とは何かを改めて考えて(「はじめに」)もらうためという

翻訳者は「本書の主題」について、それは「むしろ、宗教と科学、自然神学と近代科学とのかかわり」であると述べ、さらに、「当時のイギリスでは科学の教育と研究のほとんどすべてのアカデミックなポストは聖職者と科学者を兼ねた人々に限られていた。その神学的な見方は近代科学によって一歩一歩と後退し、ダーウィンに至って神学的な見地が消滅する。宗教と科学が一体となっていた自然神学から、無神論的な自然観への大転換だった。『すべての科学の揺り篭の傍らには、神学者が死屍累々と横たわっている』とはハックスリーの言葉であるが、この神学者とは聖職者=地質学者のことである。本書は、ダーウィン以前の時代の科学と神学と社会の交錯を複雑微妙に描いたユニークな著作である(訳者解題)」。

学際的な魅力をもつ本書だが、著者自身(自著が再評価されたとき、読み直して)次のように記している。「拙著もそうだが、・・論争に重点を置いている。同意よりも意見の不一致こそが、人々に議論をさせ、発展させ、正当化させ、究極的にかれらの見解を拡大するからである。拙著は主として地質学者たち自身の発見についてのかれらの発言、思考、および信念の神学的背景を扱った(今それを読み直してみると、その結論は、当時かれらの信念にかなう社会的、政治的現実の議論では、私の記憶にあるところよりさらに立ち入っている、と言わざるをえない)(1996年版 序文)」。

少し引用してみる。「カーワンは、自然神学の頑固な観念が科学的精神をどれほど腐敗させるかを示す、あまりにも古典的な例であることは確かである。ハットン学説へのかれの反論は何らかの証拠によるものでは決してなかった。ハットンの宗教上の罪は、『創世記』を文字どおりに信じることを支持しなかったことにあって、聖書の否定にはない。自分たちに賛成でないものは、自分たちに反対なのだ、とカーワンなら同意しただろう。もし科学が真実なら、それは聖書と一語一語、一致しなければならない。基本的に、この相互確認の解明が、科学研究の最も高貴な目的となり、その唯一の真の理由である。したがって地質学は、起源の問題にかかわり、理論にかかわらなければならない p40」。

たいへん真面目な本ではあるが、読み物としてもおもしろい。人類を支配してきた大きな考え方の移行期、その狭間における人間のモロモロを知ることができる。

2016年6月30日レビュー


大学のドンたち

大学のドンたち

  • 作者: ノエル・アナン
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2002/02/20
  • メディア: 単行本



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『天皇畏るべし-日本の夜明け、天皇は神であった』小室直樹著 ビジネス社 [人文・思想]


天皇畏るべし 日本の夜明け、天皇は神であった

天皇畏るべし 日本の夜明け、天皇は神であった

  • 作者: 小室 直樹
  • 出版社/メーカー: ビジネス社
  • 発売日: 2016/04/30
  • メディア: 単行本


失われていた権威と威力を、明治になって、天皇がふたたび持ちえた背景を知ることができる

30年前(1986年)に文藝春秋社から発行された『天皇恐るべし』の復刊。脚注が付され、印字ポイントも大きめで読みやすい。

倫理的、哲学的、宗教的においの強い、しかも、深い論議を、これだけ軽妙にやすやすと、まるで屋台店でチューハイをあおりながらでもするかのように語れるのは小室さんをおいて他にいないのではないかという思いがする。

イスラム法による石打ちの刑(死刑)に処せられる美女について記す際に「詳しく書くと、小学生の読者が引き付けを起こすと困るので・・」とあるところを見ると、読者として著者に想定されているレベルがわかる。かといって、やさしい内容では決して断じてない。それでも、幾何の証明問題に「補助線」をつかうと、思わぬ解決が得られるように、著者は「補助線」を引いて読者を助ける。それは、水戸藩・栗山潜鋒の『保建大記』であったりする。たった1本の線がなんという理解につながるのだろうと驚く。ずるいじゃないかと思う。しかし、その線一本を引くためにどれだけの教養が必要であろうかとため息がでる。

日本の天皇(明治以降~敗戦までの「現人神」時代)は、キリスト教における神に相当するという内容だ。絶対の権威をもつ存在だ(った)という。権威は(支配)力を伴う。そのことを、キリスト教の三位一体“説”(の立場)から著者は論じていく。日本がアジア諸国のなかで欧米帝国主義を撃退し(単なる西欧化でなく)近代化をはかることができた唯一の国であることを例にあげる。国民の習俗・習慣(民法)を変えることと近代化とは関係するが、諸国が失敗するなか至難の業を成し遂げえたのは、天皇の権威によるという。

平安時代末、天皇の権威が失墜して武家社会に移行する。一度、失墜した権威がふたたび明治になって蘇える。「臣民」(儒教によるものではなく、日本独自の概念)に力を及ぼすようになる。なぜか?それは、単に「日本社会が空気支配の社会であるというだけの理由によるのではな」く、「天皇イデオロギーが正統派イデオロギーとして完璧なまでに、理論的作業が為されていたからである」と述べる。

その「理論的作業」をはじめ、「天皇が畏るべ」き存在となった背景にあるモロモロに迫るのが本書といえる。

2016年6月23日レビュー

日本教の社会学 (1981年)

日本教の社会学 (1981年)

  • 作者: 山本 七平
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1981/08
  • メディア: -



「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

  • 作者: 山本 七平
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1983/10
  • メディア: 文庫



数学を使わない数学の講義

数学を使わない数学の講義

  • 作者: 小室 直樹
  • 出版社/メーカー: ワック出版
  • 発売日: 2005/04
  • メディア: 単行本



数学嫌いな人のための数学―数学原論

数学嫌いな人のための数学―数学原論

  • 作者: 小室 直樹
  • 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
  • 発売日: 2001/10
  • メディア: 単行本



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『怪物的思考 近代思想の顛覆者ディドロ』田口卓臣著 [人文・思想]


怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ (講談社選書メチエ)

怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ (講談社選書メチエ)

  • 作者: 田口 卓臣
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



貴方も、「怪物」になれるかも・・

いまどき啓蒙思想家のディドロなんて・・と思いもしたのだが、「怪物的思考」という言葉にからめ取られたのである。「近代思想の顛覆者」に魅了されたのである。表紙絵はギュスターヴ・モローの『ヘラクレスとレルネのヒュドラ』。これを読むなら、9つの頭を持つ怪物ヒュドラに変身することができるかもしれない。さらには、キングギドラよろしく精神の飛翔を経験し、人欲にまみれ汚染された地球を顛覆する視座をもつことができるかもしれないとの妄想を抱いたのである。

ヒュドラ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BC

ゴジラvsキングギドラ
https://www.youtube.com/watch?v=mETuXdAuZbE

著者はディドロの語りに注目する。その思想「学説」よりも、その語り口・方法をクローズアップする。「さまざまな『他者の言葉』を契機として、そのつど多方向に増殖していくディドロならではの思考の散逸性」「彼の言葉の運動・・」を把握するために、ディドロの初期の代表作『自然の解明に関する断想』を取り上げる。それを精読し、文学的表現や修辞技法を分析する。

そうする、思想史的意義は、「『啓蒙』をめぐる三つの思想史的レッテル(1:「理性信仰」、2:「実験哲学」、3:「言葉と物の一致」)に対する異議申し立て」である。また、そうする今日的意義の一つは「実証主義的な科学の精神から逸脱していく思考の運動」を特徴とするディドロの作品をとおし、「帰納の手続きによって抽出される『法則』の価値中立性」に対する彼の「一貫し」た「懐疑の眼差し」を読みとることである。「実験諸科学の生成期にあって、一方ではそれらの科学の可能性を高く評価しつつも、他方ではそれらに宿された原理的な限界を見据えようとしたディドロの思考は、私たちにとっても無縁であろうはずがない」。

最終章を、著者は次のように締めくくる。「だから今日、思想史の森のなかからディドロの言葉の炸裂音を聴きとることは、「啓蒙」に絡めとられた無数の『怪物的思考』の断片を、近代科学の実証主義によって抑圧された『想像力』の飛翔を、もう一度私たちのもとに取りもどすことを意味しているのである」。

あわよくば、読者各自、「想像力」をもって飛翔し、当代のキングギドラになれるかもしれない。

2016年5月17日レビュー

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「サンダ対ガイラ」をひととおり見て
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2013-08-12

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編集者ディドロ

編集者ディドロ

  • 作者: 鷲見 洋一
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2022/04/27
  • メディア: Kindle版



ディドロ限界の思考―小説に関する試論

ディドロ限界の思考―小説に関する試論

  • 作者: 田口 卓臣
  • 出版社/メーカー: 風間書房
  • 発売日: 2009/12
  • メディア: 単行本




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*ウンベルト・エーコー編著『異世界の書 幻想領国地誌集成』東洋書林 [人文・思想]


異世界の書―幻想領国地誌集成

異世界の書―幻想領国地誌集成

  • 作者: ウンベルト エーコ
  • 出版社/メーカー: 東洋書林
  • 発売日: 2015/10
  • メディア: 単行本



古来、人々を誘ってきた「伝説の土地や伝説の場所」への案内書

豪華本です。図版・写真が多く掲載されています。光沢のある紙が用いられ、美術書のような扱いがなされて、見応えがあります。

当該書籍で取りあつかう『異世界』について、著者は「伝説の土地や伝説の場所」のことであり、(そして、「架空の」「虚構の」「創作された場所は扱わない」と述べ)、それらの土地や場所は「信念の流れを創り出す」ものであり、「幻想のもつ現実性(リアリティ)こそが本書を貫く主題となる」と『序論』に記します。

第1章は『平板な土地と対蹠地』と題され、古代・中世における「土地や場所」の観念について注意が向けられています。とりわけ、中世の人々が「世界は球体であることを」知らず、大地は平板であると信じていたとする「常識」は、実は「19世紀の世俗思想家たちによるでっち上げ」であることが示されています。常識が覆されます。

以下、2章『聖書の土地』、3章『ホメロスの土地と七不思議』、4章『東方の驚異ーアレクサンドロスから司祭ヨハネまで』、5章『地上の楽園、浄福者の島、エルドラード』、6章『アトランティス、ムー、レムリア』、7章『ウルティマ・トゥーレとヒュペルボレイオイ』、8章『聖杯の彷徨』、9章『アラムート、山の老人、暗殺教団』、10章『コカーニュの国』、11章『ユートピアの島々』、12章『ソロモンの島と南大陸』、13章『地球の内部、極地神話、アガルタ』、14章『レンヌ・ル・シャトーの捏造』、15章『虚構の場所とその真実』、訳者あとがき、附録(作家名索引、図版作者名索引、図版一覧、映像作品一覧、邦訳参考文献、参考文献、図版出典)とつづきます。

各章の構成・内容は、『訳者あとがき』にあるとおりです。そこには、「美麗な図版の合間に配置されたテクストは、エーコ自身の執筆になる本文と、各主題に関連する様々な文献のアンソロジーで構成されるが、本文の筆致は軽やかで読みやすく、アンソロジー部分は、本文を補う資料としての役割はもちろん、読者を知の沃野へ導く扉ともなっている」とあります。実際のところ、「本文を補う」文献資料の膨大さに圧倒されますし、さらなる興味を呼び起こすものとなっています。

たとえば、第5章中の見出しに「エルドラード」がありますが、ウォルター・ローリー卿などによって文字通りの探索がなされたものの、「探索への人々の関心が次第に薄れていくと、今度はこの題材をアイロニカルに利用して世の中を批判する作品が現れる。ヴォルテールの『カンディード』である」と本文テクストにはさらっと記述され、後に1ページほどを用い、(本文テクストのルビ程の活字で)『カンディード』からの引用がなされています。

『序論』において「虚構の場所については」「扱わない」と記しながらも、最終章のテーマは『虚構の場所とその真実』です。その本文テクスト末尾には、「こうして最後にひとつの慰めが得られる。それは伝説の土地であっても、信仰の対象から虚構の対象へと変わった瞬間に真実になるということである」 と、あります。どういう意味でしょう。どうも、そこが、本書の肝(キモ)のようです。しっかり掴むことができればと願います。

2016年3月4日レビュー


世界を一枚の紙の上に 歴史を変えたダイアグラムと主題地図の誕生

世界を一枚の紙の上に 歴史を変えたダイアグラムと主題地図の誕生

  • 作者: 大田 暁雄
  • 出版社/メーカー: オーム社
  • 発売日: 2021/12/17
  • メディア: 単行本



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