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『人類学者への道』川田 順造著  青土社 [文化人類学]


人類学者への道

人類学者への道

  • 作者: 川田 順造
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2016/09
  • メディア: 単行本


「ゴーゴリやフェリー二に、私は共感してしまう」

巻末にある『初出一覧』を見ると、本書のために「書下ろし」たものは、巻頭のアフリカに関するエッセイ『異文化とつきあう モシ王国と私 1』『懐かしい異郷 モシ王国と私 2』『懐かしい異郷を再訪する エピローグ』と自分の出自について記した『エキゾチックな故郷』のみで、あとは『月刊アフリカ』『朝日ジャーナル』『神奈川大学評論』等に掲載既出のものである。

評者ははじめて川田さんの著作を読む機会を得たが、アフリカの異文化がもたらす興趣だけでなく、思考を刺激し五感に訴えかけてくる文章にも惹きつけられた。かつて、「日本エッセイスト・クラブ賞」を受けているということだが、なるほどと思う。

書籍タイトルは『人類学者への道』、80の齢を越した文化人類学者は、過去を振り返ってこう記す。《十代のころから愛読していたゴーゴリの小説が、『ディカーニカ近郷夜話』や『鼻』も含めて、もしかすると私を文化人類学に向わせた一番深い誘引になっていたのかもしれない。// 『方法序説』の第一部で、青年デカルトが書を捨て旅に出るところも、私には魅力があった。だが、「世間という偉大な実物」の中に自分を投げこみ、「さまざまな生活の人たちと交わり、さまざまな経験をつもう」とする、この永遠に新しい “旅立ち” の思想を語るデカルトと、その後疑う主体としての「私」にひきこもり、演繹にすがって思考を重ねるデカルトとの間の乖離にも私は驚かされる。旅でめぐりあった人たちは、デカルトにとって一体何だったのだろうか。// 私にとってデカルト以上に、ゴーゴリやフェリー二は、文学や映画を表現手段としているが、人類学者の目と心を持っているように思われる。// フェリー二の 『アマルコルド』 や 『サテュリコン』 や 『道化師』 を観ながら、私は何度 「これぞ人類学・・・」と、映画という表現手段に羨望を感じながら思ったことか。特に、他者とのかかわりで、表現する主体としての自分も一個の他者としてユーモラスに眺める感覚をもつ点で、ゴーゴリやフェリー二に、私は共感してしまう(「異文化とつきあう」)》。本書は、そのような著者の人類学者としての歩みをよく知ることのできる書籍であるように思う。

2016年12月1日にレビュー

文化の三角測量―川田順造講演集

文化の三角測量―川田順造講演集

  • 作者: 川田 順造
  • 出版社/メーカー: 人文書院
  • 発売日: 2008/10/15
  • メディア: 単行本



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『アフリカの老人 ― 老いの制度と力をめぐる民族誌』九州大学出版会 [文化人類学]


アフリカの老人 ― 老いの制度と力をめぐる民族誌

アフリカの老人 ― 老いの制度と力をめぐる民族誌

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 九州大学出版会
  • 発売日: 2016/03/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


本書は、老人を主題にしてアフリカ社会を描きなおす作業、現代社会における老いのあり方を相対化する一助

アフリカといってもいろいろな地域が扱われているが、長年アフリカでフィールドワークをつづけてきた先生方による老人たちの暮し・あり方についての興味深い報告。

執筆者の先生方は、奇をてらわずに現地の報告しているが、その報告内容そのものが奇妙である。それはアフリカにおける暮し自体が奇妙であるということだ。

もっとも、奇妙と感じるのは、日本での自分たちの暮しを基準にしての話だが、その奇妙さに照らして日本を顧みると、超高齢社会の日本が、逆に奇妙に見えてくる。アンチエイジング花盛りで、年をとっても若さを維持し、美しくあるよう促され、総活躍社会の一端を担うよう期待されてあるというのは、現代日本社会における奇妙な要請であって、それを奇妙と感じずに乗っかっていくのは、本来のあり方からいって、やはり奇妙なのではないかと思えてくる。本来のあり方とは、年寄りは年寄りのままで、その存在価値があるのではないのか、あったはずではないのかということだ。

序章に、次のようにある。「これまでの民族誌には、しばしばインフォーマントとして『長老』が登場してきたが、社会の描写のなかには老人の姿は明確に見えなかった。本書は、老人を主題にしてアフリカ社会を描きなおす作業でもある。それはまた、現代社会における老いのあり方を相対化する一助となるであろう」。

当該書籍は、現代日本を映す鑑とすることもできるし、「アフリカ社会の老いを理解するうえで欠くことのできない」、冗談関係・忌避関係、祝福・呪詛、年齢体系等についての理解を得るうえでの良い助けともなる。

2016年6月15日レビュー

*********

以下、『序章』から抜粋

「本書では、老いることによって獲得され、老人であるからこそ社会に及ぼすことのできる何がしかの力を〈老いの力〉と呼ぶ」

1章:「アフリカ社会の老いを理解するうえで欠くことのできない、冗談関係と忌避関係、祝福と呪詛、年齢体系が、現代社会はもとより人類社会の未来を想像するために必要な示唆が含まれること」「(報告する)人類学者自身が老いることによって手に入れる視点が、人類学の方法に再考を促すものにもなりうること」が示される。

「2章と3章では、主に冗談関係、祝福と呪詛という側面から〈老いの力〉について焦点を当てている」

「4、5、6章は、年齢体系と関係する〈老いの力〉を扱う」「アフリカには年齢体系を高度に発達させた社会が見られる。年齢体系とは、加齢という連続するプロセスを意味のある形に切り分ける制度である。この制度によって人間は人生を形あるものとして経験することが可能になる。

「7章、ケニアの一夫多妻制社会のルオにおける男女の老いについて明らかに」「無数の妻と子どもを持つ有名カリスマ老人」と「盲目の一人身の老人から、それぞれの老いを描き出」す。

「8章、来るべきアフリカの人口高齢化のメカニズムとその議論について明らかにする。そのうえで、本書で語られてきたアフリカの人々の老いが、今後、社会保障や医療といった近代的国家制度とどのように関係していくのか、民俗誌的アプローチの可能性を示す」



信念の呪縛―ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌

信念の呪縛―ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌

  • 作者: 浜本 満
  • 出版社/メーカー: 九州大学出版会
  • 発売日: 2014/01
  • メディア: 単行本



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*『インディオの気まぐれな魂』 エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ著 水声社 [文化人類学]


インディオの気まぐれな魂 (叢書 人類学の転回)

インディオの気まぐれな魂 (叢書 人類学の転回)

  • 作者: エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ カストロ
  • 出版社/メーカー: 水声社
  • 発売日: 2015/10/30
  • メディア: 単行本



16世紀、宣教師たちが、現地の人々に見たモノは

コロンブスによって新大陸が発見されたのが1492年。その後、イエズス会宣教師たちの布教がはじまる。

16世紀、宣教師たちが、現地の人々に見たのはその魂の「気まぐれ」さであった。ブラジル沿岸部を生活の場としていたインディオ・トゥピナンバは、イエズス会宣教師たちに対したいへん歓迎的であったが、その実、たいへん御しがたい、「気まぐれ」な民であった。近隣の部族との戦争にあけくれ、復讐・食人の習慣から離れず、悪習を改めようとしない。

著者は、当時の宣教師たちの残した数々の記録と、それらに対する先行研究への批判を当該書籍でおこなう。その態度は、「一貫してアメリカ大陸先住民の思考に寄り添い続けてきたブラジル出身の民俗誌家」としてのものである。当該書籍の最初の版は、前年(1991年)に発行されたレヴィ=ストロースの『大山猫の物語』に応答している点、注目される。レヴィ=ストロースが「提示したアメリカ大陸先住民の思考と存在の原理としての『他者への開かれ』」に対して、著者は肯定的ではあるが、レヴィ=ストロースが旧大陸からの視点、神話的視点から論議を展開するのに対し、著者は、そうではなく、個々の宣教師たちの目(記録)を借りる。

原著は、コロンブス新大陸発見500周年の年に発刊された。当時のインディオたちの置かれた複雑な状況については『解説』において言及されている。大雑把にまとめるなら、国家によって保護されると同時に、対策、管理される対象であることから生じる種々の問題といえる。そうしたなかで次の文章が印象的だ。

〈 (著者)が、宣教師と部分的に重なる位置にある以上、『気まぐれさ』を再考することは単に16世紀の宣教師の無理解を批判することではない。むしろこの取組は、自分自身にさえ逆らうようにして新しい思考を探究することのイメージを生み出す。気まぐれさにいらだちを覚え、嫌悪する感性に、そこから派生する差別意識に、その意識によって容認される不平等な扱いに決して一致することのない思考の道筋を示すこと。それはすなわち、インディオ社会を解体しかねない社会政策を支えてきた思考の条件に抗することであり、同時代社会において実現している差異を思考する条件を変えようと挑むことでもある。この思考のイメージは、後に現代的な人類学的思考として結実する。「人類学の役割とは、他者の世界を説明することではなく、われわれの世界を多元的にすることである〉

未開、野蛮、暴力的と思われる人々であっても、それなりの考え方に基づいて行動している。故・小室直樹氏のいう「日本教」で動いているご都合主義の日本社会と、当時のインディオたちの「気まぐれ」さが重なるように当方には思え、たいへん興味ぶかく読んだ。

2016年1月24日レビュー

********

「トゥピナンバは、預言者と司祭たちが彼らに指図したことは何でも行ったーーただし、自らが望まないことを除いて」(16世紀ブラジルにおける不信仰の問題 p63)


食人の形而上学: ポスト構造主義的人類学への道

食人の形而上学: ポスト構造主義的人類学への道

  • 作者: エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ カストロ
  • 出版社/メーカー: 洛北出版
  • 発売日: 2015/10/26
  • メディア: 単行本



大山猫の物語

大山猫の物語

  • 作者: クロード・レヴィ=ストロース
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: 単行本



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「ヤシの文化誌(花と木の図書館)」原書房 [文化人類学]


ヤシの文化誌 (花と木の図書館)

ヤシの文化誌 (花と木の図書館)

  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2022/07/21
  • メディア: 単行本



南国リゾートと聞くと自ずと湧くイメージ。それはヤシの木ではないでしょうか。本書はヤシの木をめぐるもろもろのお話しです。イギリスのキュー王立植物園やバッキンガム宮殿の門扉にある王家の紋章が黄金のヤシの葉で囲まれていることからお話しは始まります。

ヤシの木は、実は木ではなく草の仲間だそうです。そのような植物学的な、牧歌的な話が続くかと思いきや、歴史的な記述が出てまいります。

本書でよく取り上げられるヤシは、デーツを生みだすナツメヤシ。ココナッツを生むココヤシ。そして、油(パーム油)を生むアブラヤシ。みな商品価値の高いものを産みだします。とりわけアブラヤシはそうです。価値あるモノには人々が群がります。ゴールデンラッシュならぬパームオイルラッシュが生じます。それをめぐる話は強烈です。少し引用してみましょう。

熱帯のパーム油の安定供給を望むリーバは、1909年に誘致されてベルギー領コンゴにアブラヤシのプランテーションを設立した。以前はコンゴ自由国と呼ばれていたこの地域は自由でも国でもなく、ベルギー王、レオポルド2世(1835~1909)の私領地だった。人々も土地もすさまじいやり方で搾取され、強制労働、殺人、手首切断、性的暴行が弾圧の手段として用いられていた。王は1908年にこの領地の支配を断念し、領地とその負債をベルギー国へ委譲した。/ リーバは見込みがあると思った。(中略)イギリス白人労働者階級に対するリーバの態度は、容易にコンゴ人に対するものに変えることができた。//(中略)リーバのコンゴへの介入は永続的な植民地搾取の一環だったとする、逆の見解もある。公式には1960年に終わったとされる植民地時代の間、パーム油とパームカーネルは、リーバ・ブラザーズ社とその後継の会社によって、抑圧と強制労働のシステムを用いて抽出され、プランテーションの労働者は何か月も家族から引き離された。働くのを拒んだ者はしばしば投獄され、いったんそこに入れば、少なくとも1959年まではチコット(重い皮の鞭)を使って監督され罰せられた。p116-p117

植民地時代が終わったのは1960年とありますが、ついこの間ではありませんか。ちなみに、このリーバ・ブラザーズ社は1929年に合併して「ユニリーバ」となります。利権のために人は躍起になります。逆の例もあります。フランスのデュポン社などは、自社製品が売れるようにたいへん商品価値の高い大麻の流通を妨げるように政治家に働きかけたという話があります。デュポン社の件は本書には出ていませんが、読んでいてそんなことを思いだしました。ほかにも話題は多く、写真も多く、翻訳も読みやすく、いろいろ考えさせられる読み応えのある本です。


大麻草と文明

大麻草と文明

  • 出版社/メーカー: 築地書館
  • 発売日: 2014/10/06
  • メディア: 単行本



「未解」のアフリカ: 欺瞞のヨーロッパ史観

「未解」のアフリカ: 欺瞞のヨーロッパ史観

  • 出版社/メーカー: 勁草書房
  • 発売日: 2018/01/16
  • メディア: 単行本



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「ケルト神話・伝承事典」木村 正俊 [文化人類学]


ケルト神話・伝承事典

ケルト神話・伝承事典

  • 作者: 木村 正俊
  • 出版社/メーカー: 論創社
  • 発売日: 2022/06/20
  • メディア: 単行本



序論は「ケルト神話ー民族精神の豊かな伝承」とタイトルされ、「ケルト神話の重要性」「ケルト人とは」「ケルト神話の伝承」「アイルランド神話」「ウェールズ神話」「アーサー王伝説」「ケルト神話の独自性」と論じられます。その後に主要な事典部分、参考文献、あとがき、索引と続きます。

ケルト関連事典には、もっと大きなサイズのものもあるようですので、本書の最大の魅力は「コンパクト」な点かもしれません。コンパクトではありますが、立項された項目を読んで楽しめます。引くだけでなく読めるというのは魅力です。/ ケルトど素人の評者が、通読してそう感じたまでのことですが、ケルト文化のなかで「詩」というものは重要なものだったようです。その一つの項目に「フィリ」があります。以下(どのような説明がなされているかの一例として)引用してみます。

フィリ fili[Ir],file[Ir]
複数形は、フィリズ(filid,filidh)。初期アイルランド社会で、主に王宮に仕えた高位の特権的な詩人、預言者。階層の低い詩人(bard)とは区分された。普通一般の詩人(poet)とは異なるので、誤解してはならない。フィリは詩人であるほかに語り部、歴史家としての任務をもち、職域は広かった。その著作は散文で書かれたが、それらには英雄物語や伝説、歴史記録、王家の系図、地誌などが含まれた。詩人の役割としては、韻律の技法の伝統を保持することに努め、王の功績をほめたたえる称賛詩を多く作った。フィリの詩には鋭い風刺が込められていることがしばしばだったので、フィリは王にとってさえ、恐るべき存在であった。フィリは予言の能力があり、折に触れそれを行使した。/ フィリの階層は7つあり、最上位はオラウ(ollam)〔オラヴとも表記〕であった。オラウの資格を得るには、特別の学校で12年間修業し、350の物語を記憶することが必要であった。

ちなみに「オラウ」の説明は、以下のよう // 英語ではオラヴ(olave,olav)。アイルランドの初期の詩人(フィリ)の7つある階層のうち、最高位の階級。オラウの資格を得るには9年から12年の修行を必要とした。修業期間を通じて、250の主要な物語と100の2次的物語を暗記しなければならなかった。オラウの中で最上位のオラウは「リー・オラウ」あるいは「アルド・オラウ」(「チーフ・オラウ」)と呼ばれる公式の地位に就いた。この地位の保持者は、アイルランドの上王(アルド・リー)の地位と対等の権威を与えられた。

日本とケルト(地球新世紀)
https://bookend.blog.ss-blog.jp/2007-01-02

ケルト巡り

ケルト巡り

  • 作者: 河合隼雄
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2013/03/29
  • メディア: Kindle版



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ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学 ティム・インゴルド著 フィルムアート社 [文化人類学]


ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学

ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学

  • 作者: ティム・インゴルド
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 2018/09/25
  • メディア: 単行本



なんだか新しいモノの見方を提示しているようだ。新しいので、よく分からないのだが、直観的にオモシロイものであることは分かる。あとは、ラインを解きほぐすだけだ。第1(章)は「ラインとブロブ(小さな塊)」とある。どうも、質・量のあるモノとライン・線が対照されているらしい。ラインとラインが織りなす結節点にあるのがモノということなのかなんなのか。なんだろう。オモシロそうだと思う方はご覧ください。ざあっと見るなかで、「10 知識」と「26 教育と注意」がとりわけ興味を引いた。

故・弥永昌吉東大名誉教授についての逸話
https://bookend.blog.so-net.ne.jp/2006-06-16-1


ラインズ 線の文化史

ラインズ 線の文化史

  • 作者: ティム・インゴルド
  • 出版社/メーカー: 左右社
  • 発売日: 2014/05/21
  • メディア: 単行本



メイキング 人類学・考古学・芸術・建築

メイキング 人類学・考古学・芸術・建築

  • 作者: ティム インゴルド
  • 出版社/メーカー: 左右社
  • 発売日: 2017/09/14
  • メディア: 単行本



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梅棹忠夫と今西錦司との関係(『預言者 梅棹忠夫』東谷暁著から) [文化人類学]


予言者 梅棹忠夫 (文春新書)

予言者 梅棹忠夫 (文春新書)

  • 作者: 東谷 暁
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2016/12/20
  • メディア: 単行本



しばらく前、河合雅雄(霊長類学者)さんの講演(NHK文化講演会「今西錦司先生と仲間たち」)で、オモシロイ話を伺った。河合さんの結婚式の際、今西錦司がしてくれた祝いのスピーチは、ちょうど成功したマナスル登頂にふれるばかりで結婚にはふれず「ナンヤソレ」というものだった・・とか、梅棹忠夫は切れ者で、その家に押しかけ議論をふっかけるのだが、河合さんはじめみんな「かえりうち」にあって、グウの音もでないほどだった・・とか、(記憶にしたがっているので、その言葉どおりではないが)今西、梅棹両氏の人柄がみえてオモシロかった。

上記イメージ本(預言者 梅棹忠夫)に、その今西・梅棹両氏の関係が示されている。当方にとっては、新鮮で、また、河合さんの話を裏打ちするものでもあった。

以下、引用

**********

ところで、梅棹の「師」とされている今西錦司はどうしていたのだろうか。梅棹という人間の形成にとって、今西は大きな存在だったことはまちがいない。

そのためか、京都大学に今西錦司の研究室といったものがあって、そこに梅棹が入ったと思っている人が多い。しかし、当時、今西は登山家としては知られるようになっていたが、学者としては京大の万年無給講師にすぎなかった。

このころ梅棹が一緒に山に登り、動植物について語り合っていた仲間は、梅棹を入れて6人いた。梅棹、藤田和夫、川喜多二郎、和崎洋一、吉良竜夫、伴豊の6人で、有機化学に出てくるベンゼンの構造が六角であることから、彼らは自分たちのことを「ベンゼン核」と呼んでいた。このベンゼン核たちが、今西を自分たちのリーダーに担ぎ上げる。

「今西グループは、今西先生の大学での師弟関係を主軸とする心情的なあつまりのようにおもわれていることがおおいが、事実はそうではない。だれひとり今西先生の講義をきいたものはいないのである。ベンゼン核が中心となって先生をひっぱりだしたのであって、それはいわば契約にもとづくゲゼルシャフトであった。そのころ、わたしたちはこのグループの性格を『団結は鉄よりもかたく、人情は紙よりもうすし』と規定していた」

将来、日本を代表する学術探検のグループが、実は、こうした小さな探検家たちのサークルから生まれたことは興味深い。やがて、このベンゼン核を従えた今西隊長による探検が始まり、1941年にはミクロネシアのポナペ島に出かけている。

「今西さんの指導は徹底したものであった。あるきながら現象を観察し、議論をする。わたしたちは“なま”の自然を前にして、それを自分の目で観察して解読する術を徹底的にたたきこまれた。こうしてわたしたちは、いわば探検隊における見習い士官となったのである」

(以上、第2章 モンゴルの生態学者 「大学では探検の日々」から p43-5)


梅棹は、自分たちが形成した今西をとりまくグループには「人情は紙風船よりも軽し」という合言葉があって、議論は人情を捨てて徹底的に行ったと書いている。若い世代が今西につっかかるようにして批判し、それに対して今西がこれまた激しく反論するというのが普通だったらしい。

しかし、こうしたグループにはむしろ「ゲゼルシャフト」以上の感情が生まれるのが自然なのではないだろうか。やや趣が異なるが、夏目漱石を囲む「木曜会」も、参加したばかりのころを芥川龍之介が書いているように、若いメンバーが漱石にくってかかるようにして挑み、それを斬って捨てていくのが漱石の楽しみだった。にもかかわらず、あるいはそのためか、木曜会にはきわめて親密な雰囲気があったといわれている。

(以上、第2章 モンゴルの生態学者 「今西のレリーフ」から p66) 

************

『暗黒のかなたの光明ー文明学者梅棹忠雄がみた未来』(NHKのETV特集)から
3「市民」のあるべき姿とは(梅棹忠雄の場合)
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2011-06-17


行為と妄想 わたしの履歴書 (中公文庫)

行為と妄想 わたしの履歴書 (中公文庫)

  • 作者: 梅棹 忠夫
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2002/04
  • メディア: 文庫


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敵を殺し、食う、理由 (水声社発行『インディオの気まぐれな魂』から) [文化人類学]


インディオの気まぐれな魂 (叢書 人類学の転回)

インディオの気まぐれな魂 (叢書 人類学の転回)

  • 作者: エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ カストロ
  • 出版社/メーカー: 水声社
  • 発売日: 2015/10/30
  • メディア: 単行本



未開人と笑うなかれ

現代人の方が野蛮に思える。

以下は、上記書籍中の
『トゥピナンバはいかにして戦争に負けたか/戦争を失ったか』からの引用

**********

男性にとって、初潮儀礼に相当する通過儀礼となっていたのは捕虜の儀礼的処刑であった。捕虜を殺し、初めて名前を変えることを経ていなければ、若者は結婚し子供をもつ資格がないとされていた。敵を一人か二人捕らえ、そうすることで子供の頃の名前を変えた男でなければ、母親たちは自分の娘をやろうとはしなかった。すなわち、集団の再生産は理念上、敵を捕らえ、儀礼的に処刑するという装置、戦争の原動機と結び付いていたのである。ひとたび結婚すれば、男たちは義理の父母や兄弟に捕虜を贈り、これらの姻戚が復讐を遂げ、新たな名前を得られるようにしなければならなかった。婚姻に基づくこのような給付は、男性が妻方での「奴隷状態」から抜け出すための要件の一つであったと思われる。

(宣教師たちによる報告、省略) 

このようないくつもの名前は、勇敢な功業を記憶にとどめるものであり、トゥピナンバにおける名誉の本質的な記号にしてその価値基準となっていた。それらはまた、儀礼的な瘢痕文身(エスカリフィカソン)や、顔に孔をあけ装飾物を挿入すること、あるいは人前で演説をする権利、幾人もの妻を抱え込むことなどからなる一揃いの一部をなしていた。贅沢としての一夫多妻は、首長や偉大な戦士にふさわしいこととされていたようである。捕虜を、記号を、女たちを、義理の息子たちを蓄積することーー戦士としての名声によって妻方への依存状態から脱することで、男性は、これと同じ従属形態を、自らの若い義理の息子、すなわち、自身の何人もの妻が産んだ娘たちの夫に押し付けられるようになった。「こうしてより多くの娘をもつ男が、この娘たちを通じて手にする義理の息子たちに敬われることになる。義理の息子たちは、自らの義理の父および兄弟たちにつねに従うのである・・・」(Anchieta 1584:329)

さらに、戦士としての功業が現世における名誉の条件であったとすれば、それはまた、〈彼岸〉における安逸のためにも必要なものであった。勇敢な者だけが楽園に行くことができるのであり、臆病者たちの魂は、アニャンと呼ばれる悪魔たちとともに、地上を惨めにうろつきまわらなければならない定めにあった。そればかりではない。敵を殺すことによって復讐を遂げることが勇敢で価値のある生き方の印であったとすれば、よき死(カロス・タナトス)とは戦いにおいて成就されるものであり、またその至上の形態は、集落中央の広場で儀礼的に処刑されることにあった。捕虜の状態に置かれ、「犠牲」にされることは、勇敢で気高い態度をもって受け止められるべきこととされていた。

彼らは敵の者たちを、これらのすべての儀式にわたり勇敢で決然としているようにと説得し、また、もし敵たちが死の恐怖からそうすることを拒むならば、彼らは敵たちを弱く臆病だと呼ぶ。結果として、彼らの見方では非常に悪いものであるそのような不名誉を避けるため、彼らは死の瞬間に、それを実際に見たことがない者には信じられないようなことを行う。というのも、彼らは飲み食いし、分別を失った者のように肉体的な楽しみにふけるのであり、その安逸な様子は、彼らは自分が死ぬことをまったく聞いていないのではないかと思われるほどである。(宣教者名略1557:Ⅱ,386)

ここには、相互に絡み合った二つのモチーフがある。一方は終末論的で個人的=人格的な水準に属しており、他方は社会学的で集合的な水準に属している。敵によってむさぼり食われることは、トゥピ=グアラニーの宇宙論に特徴的な一つの主題、すなわち埋葬と死体の腐敗に対する恐怖と結び付いていた。

捕虜たちでさえ、この状況において自らに起こりつつあること、彼らの考えでは栄光ある死がふりかかってくることを、高貴で威厳のあることとみなしている。というのも彼らによれば、墓のなかで、土の重みーー彼らの考えでは相当なーーを支えなければならないというのは、臆病な魂にふさわしいことなのであって、戦争での死にはふさわしくないからである。(同上1554:Ⅱ,113)

[そして]なかには、食べられるであろうことに満足している者たちもおり、彼らは、仕えるために助けられることには決して同意しない。というのも彼らによれば、死んで異臭を放ち、畜生どもに食べられるのは悲しいことだからである。(同上1584:114)

ジャコメ・モンテイロは、「異教徒の予兆」を思い起こしながら、遠征する戦士たちにその企てを思いとどめさせたものの一つに、運搬する食糧の腐敗があったと述べている。

調理された肉にうじ虫がわくとーーこの土地のひどい暑さでは、容易にそうなるのだがーー、彼らは、肉にうじ虫がついたのと同じように、敵も自分たちを食べることはできないだろう、代わりに敵たちを殺してうじ虫だらけにしてやろうと言う。そのようになることは、この野蛮人たちにおける最大の屈辱なのである。(同上1610:413)

捕虜にする側とされる側の間には共謀関係があったことがわかるだろう。この関係によって、一人のトゥピナンバは別のトゥピナンバにとって最良の敵とされていたのである。さらに、敵を捕虜とし処刑することのさまざまな様相が、捕虜をトゥピナンバのイメージに合致した存在に作り変えようとするーー彼がまだトゥピナンバでない場合にはーー努力を証拠立てている。ヨーロッパ人の場合、身体や顔の毛を取り除かれ、現地の様式で彩色された(ハンス・シュターデンの場合がそうだった)。捕虜は、自分たちを捕らえている人々とともに踊り、食事をし、酒を飲まなければならず、時には彼らの戦争に同行しなければならなかった。さらに、捕虜に妻をあてがうこと、すなわち彼を義理の兄弟に作り変えることは、敵を社会化するための企てとして、このような意味で解釈されるべきと私には思われる。トゥピナンバは、自らが殺し、食べようとする他者が、完全に一人の人間として定義されており、自らに起ころうとしていることを理解し、かつ望んでいるという確信をもちたかったのである。

敵によって殺され、食べられるという現象が、トゥピ系諸民族に共通する、人の腐敗しうる部分を昇華することによる不死性の達成という問題系(参照省略)の文脈で理解されなければならないこと、また、トゥピナンバの外ー食人が、直接に一つの葬送体系となっていたことは疑いない。しかしまた、トゥピナンバが敵をむさぼり食ったのが、哀れみからではなく復讐と名誉のためであったということも、同じように確かである。ここにおいてわれわれは、私には根本的と思われる社会学的モチーフに遭遇する。このモチーフは、腐敗することと腐敗しえないことに関する人格論的な主題よりも、さらに根本的であるかもしれない何かーー宣教師たちのよる教化と改宗の努力に対し、食人慣習以上に抵抗した何かに関わるものである。敵の死、および敵の手による死が可能にしていたものとは、復讐の永続化そのものであった。

[そして]彼らがそのように敵の肉を食べるに至った後では、敵の側の憎しみは永久に確固たるものとなる。というのも、彼らはそのことにとても強い侮辱を感じるからであり、このため互いに仇を討つことを必ず求めるようになるからである・・・。(同上1576:139)

他人の手による死がすばらしい死であったのは、それが報復されうる死、すなわち正当であり、それに対して復讐を遂げることが可能な死であったからである。それは意味のある死であり、価値や人格を生み出すことができる死であった。アンドレ・テヴェは、いかにして自然の宿命としての死が社会的な必然性に転換され、さらには後者が個人の徳へと転換されるかを、巧みに表現している。

捕虜が、[自分が間もなく処刑され、食べられるという]この知らせに衝撃を受けるなどと考えてはいけない。というのも彼らは、自らの死は名誉なことであり、またそのように死ぬことは、故郷にいて何かの伝染病で死ぬよりもはるかによい、という考えをもっているからである。というのも(彼らのよれば)、人々を傷付け命を奪う死なるものに対して復讐することはできないが、戦争において虐殺された者の仇を討つことは十分にできるからである。(Thevet 1575:196)

そうだとすれば復讐は、決して単に、インディオの攻撃的な気性や、過去の受けた侮辱を許し、忘れる能力が彼らに病的なまでに欠けている、ということの産物ではない。まったく逆に、復讐はまさしく記憶をつくり出す制度であった。記憶とはまた、それを通して個人の死が社会体の長寿のために役立てられるような、敵に対する関係以外の何ものでもなかった。個人の分け前と集団のそれとの分離、名誉と侮辱の奇妙な弁証法は、ここから生じていたのである。すなわち、他人の手によって死ぬことは、戦士にとっては名誉であったが、彼が属する集団の名誉にとっては侮辱であり、同等の返礼をする必要を課すものであった。結局のところ、名誉は、復讐への動機となりうること、それ自体の生成(デヴイール)における社会の存続のための担保となりうることに基礎を置いていた。敵同士をつなぐ死に至る憎悪は、彼らが互いにとって不可欠であることの印であった。外ー食人というこのシミュラークルは、個人を食い、消費することによって、その集団がある本質的なことを維持しうるようにしていた。すなわち、これらの集団の他者への関係、絶対不可欠なコナトゥス(自己保存の努力・傾向)としての復讐をである。不死性は復讐を通じて得られ、また不死性の探究が復讐を生み出していた。敵の死と自身の不死性の間に、あらゆる個人が歩むべき軌跡、すべての人の運命が位置していたのである。p79-p88

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