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梅棹忠夫と今西錦司との関係(『預言者 梅棹忠夫』東谷暁著から) [文化人類学]


予言者 梅棹忠夫 (文春新書)

予言者 梅棹忠夫 (文春新書)

  • 作者: 東谷 暁
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2016/12/20
  • メディア: 単行本



しばらく前、河合雅雄(霊長類学者)さんの講演(NHK文化講演会「今西錦司先生と仲間たち」)で、オモシロイ話を伺った。河合さんの結婚式の際、今西錦司がしてくれた祝いのスピーチは、ちょうど成功したマナスル登頂にふれるばかりで結婚にはふれず「ナンヤソレ」というものだった・・とか、梅棹忠夫は切れ者で、その家に押しかけ議論をふっかけるのだが、河合さんはじめみんな「かえりうち」にあって、グウの音もでないほどだった・・とか、(記憶にしたがっているので、その言葉どおりではないが)今西、梅棹両氏の人柄がみえてオモシロかった。

上記イメージ本(預言者 梅棹忠夫)に、その今西・梅棹両氏の関係が示されている。当方にとっては、新鮮で、また、河合さんの話を裏打ちするものでもあった。

以下、引用

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ところで、梅棹の「師」とされている今西錦司はどうしていたのだろうか。梅棹という人間の形成にとって、今西は大きな存在だったことはまちがいない。

そのためか、京都大学に今西錦司の研究室といったものがあって、そこに梅棹が入ったと思っている人が多い。しかし、当時、今西は登山家としては知られるようになっていたが、学者としては京大の万年無給講師にすぎなかった。

このころ梅棹が一緒に山に登り、動植物について語り合っていた仲間は、梅棹を入れて6人いた。梅棹、藤田和夫、川喜多二郎、和崎洋一、吉良竜夫、伴豊の6人で、有機化学に出てくるベンゼンの構造が六角であることから、彼らは自分たちのことを「ベンゼン核」と呼んでいた。このベンゼン核たちが、今西を自分たちのリーダーに担ぎ上げる。

「今西グループは、今西先生の大学での師弟関係を主軸とする心情的なあつまりのようにおもわれていることがおおいが、事実はそうではない。だれひとり今西先生の講義をきいたものはいないのである。ベンゼン核が中心となって先生をひっぱりだしたのであって、それはいわば契約にもとづくゲゼルシャフトであった。そのころ、わたしたちはこのグループの性格を『団結は鉄よりもかたく、人情は紙よりもうすし』と規定していた」

将来、日本を代表する学術探検のグループが、実は、こうした小さな探検家たちのサークルから生まれたことは興味深い。やがて、このベンゼン核を従えた今西隊長による探検が始まり、1941年にはミクロネシアのポナペ島に出かけている。

「今西さんの指導は徹底したものであった。あるきながら現象を観察し、議論をする。わたしたちは“なま”の自然を前にして、それを自分の目で観察して解読する術を徹底的にたたきこまれた。こうしてわたしたちは、いわば探検隊における見習い士官となったのである」

(以上、第2章 モンゴルの生態学者 「大学では探検の日々」から p43-5)


梅棹は、自分たちが形成した今西をとりまくグループには「人情は紙風船よりも軽し」という合言葉があって、議論は人情を捨てて徹底的に行ったと書いている。若い世代が今西につっかかるようにして批判し、それに対して今西がこれまた激しく反論するというのが普通だったらしい。

しかし、こうしたグループにはむしろ「ゲゼルシャフト」以上の感情が生まれるのが自然なのではないだろうか。やや趣が異なるが、夏目漱石を囲む「木曜会」も、参加したばかりのころを芥川龍之介が書いているように、若いメンバーが漱石にくってかかるようにして挑み、それを斬って捨てていくのが漱石の楽しみだった。にもかかわらず、あるいはそのためか、木曜会にはきわめて親密な雰囲気があったといわれている。

(以上、第2章 モンゴルの生態学者 「今西のレリーフ」から p66) 

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『暗黒のかなたの光明ー文明学者梅棹忠雄がみた未来』(NHKのETV特集)から
3「市民」のあるべき姿とは(梅棹忠雄の場合)
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2011-06-17


行為と妄想 わたしの履歴書 (中公文庫)

行為と妄想 わたしの履歴書 (中公文庫)

  • 作者: 梅棹 忠夫
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2002/04
  • メディア: 文庫


ウィキペディア『文化講演会』の項から引用

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2016年 4/13(日) 4/19(土) 「今西錦司先生と仲間たち」講演:河合雅雄(京都大学名誉教授)霊長類学者の河合雅雄は京都大学一年生の時、今西錦司による「生物社会学」に傾倒し、その門下に入った。当時、世界的に休眠状態にあった霊長類学は、生物社会学と生態学の新たな装いで、戦後日本で再興したところであった。京大動物学科の宮地伝三郎教授と今西をリーダーとして1951年、霊長類研究グループが結成され、若い研究者による野生二ホンザル社会の研究が始まった。世界の学界を驚かせた成果は、今西の卓越した先見性と強力なリーダーシップ、魅力的な人間性に負う所が多かった。講演では、当時を振り返り、今西と、取りまく若い研究者の個性あふれる群像を、エピソードを交えて語る。
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