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身体の大衆文化 描く・着る・歌う KADOKAWA [民俗学]


身体の大衆文化 描く・着る・歌う

身体の大衆文化 描く・着る・歌う

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2021/11/12
  • メディア: 単行本



もっと容易に読めるものと思いましたが、むずかしい。寝転がって読む本ではありません。そのまま寝てしまいます。大衆文化における身体と表現をめぐる論文集成です。取り上げられる個々の事象(春画、血みどろ絵、妖怪、コスプレ、絵馬、車いすなど)についてのオモシロイ大衆文化史として読むこともできようかと思いますが、総じての印象は「オモむずかしい本」と言えます。内容をまとめると帯に示された一文「人々はいかに表現し、身体の可能性を広げてきたのか」に集約されます。「序 身体とメディアをめぐる大衆文化論」には、本書の企図するところと後につづく10章の位置づけが示されます。それは「身体を表現する」「身体を読み替える」「身体に回帰する」に収まります。序文をよくよく理解して臨むと得るところ大であるように思います。ちなみに評者は「クイア論」なるものを本書で知り、興味をもちました。(以下に本書「序」文冒頭部分を引用します。以下引用です)。

私たちは、日々、身体を用いて物事を捉えている。現代でこそ、視覚による情報が圧倒的に優位を占めているが、かつては必ずしもそうではなかった。手足を使い、身体を動かし、五感ー視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚といった身体感覚を駆使して、身の回りの世界を把握しようとしてきた。さらに五感に収まりきらない「第六感」も大いに働かせて、見えないものを感じ取ったり、絵を描いたり、歌ったり、踊ったり、着飾ったりして、自らを表現してきた。また身体を使うと同時に、その延長上にさまざまな道具や技術も進化させてきたのである。これらの道具や技術こそ、身体と世界を媒介するメディアであると言える。/ 本書では、人々が身体を用いてどのように身の回りの世界について表現してきたのか、「大衆文化」の視点から明らかにする。/ 本シリーズに先立ち刊行された『日本大衆文化史』に示されているように、何かを語る、すなわち「発語」するのは、専門家や作家といった固有名詞を持つ者だけの特権ではなく、「大衆」もまた「発語」する主体として、文化をつくることに深く関わってきた。ここで「大衆」は、「群れとしての作者」として捉えられる。/ また本シリーズ第二巻『禍いの大衆文化ー天災・疫病・怪異』では、「群れ」としての大衆文化の「作者」と、「群れ」としての大衆文化の「享受者」は協同・共犯関係にあり、この関係を支えているのは、快楽やカタルシスなどのさまざまな「欲望」であるとしている。そして「群れ」としての「作者」と「享受者」は、同じ「欲望」に支配されているという点で深く結びつき、その両者を媒介したのが、マス・メディアすなわち大量に情報(文化表象)を送り出す媒体であったとしている。/ これらを踏まえ、本書での大衆文化を分析する視点を示しておきたい。/ まず、「大衆文化」を論じるにあたって、身体をより大きな文脈で捉える点を強調したい。道具や技術は、広い意味で「身体」とみなすことができる。この考えは人間の諸器官の能力を拡大し、また代替する技術に注目したマクルーハンの文明論につながる。彼は、メディアは人間の身体の拡張であると宣言し、メディアの変化が、私たちと世界のつながり方を変え、人々の世界観をも変えていく、つまり身体とメディア、そして人々の世界観は切り離すことのできない関係にあると主張した。このように捉えることで、私たちは生まれながらの身体の制約から解放され、道具や技術といったメディアによって、「身体」の可能性を拡大することができると言える。/ この視点から、現代の「大衆文化」に目を向けると、たとえばSNSは、私たちと世界のつながり方を変え、身体の新たな可能性を実現するとい点で、圧倒的な影響力のあることは、改めて指摘するまでもないだろう。/ 私たちは現在、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックのただなかにあり、行動を制限されながら、テレワークなどを駆使しつつ社会活動を維持している。ますますメディアに身体を委ね、または委ねなければならない情況にあり、メディアと身体の関係、また身体そのものをも考え直す必要に迫られていると言える。
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