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「世にも美しき数学者たちの日常」 二宮 敦人著 幻冬舎 [数学]


世にも美しき数学者たちの日常

世にも美しき数学者たちの日常

  • 作者: 二宮 敦人
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2019/04/11
  • メディア: 単行本


人の数だけたのしむ道すじがある

怖いものは何か?と問われて、数学と数式と答える方にうってつけの本。数学者たちへのインタビューを通して数学がたいへん身近なものになるはず。すこし引用してみる。

「僕たちはみな、かけ離れた存在である。ゼータ兄貴も松中さんも僕も、価値観も能力も全く違う。時には宇宙人と同じくらいの距離感があるかもしれない。だが、事実を悲観するのではなく正面から受け止め、ではそんな人間同士で手を繋ぐにはどうしたらいいか考えたのが、数学者だったのではないか。 / そして決まりが作られ、表現するために数式が生まれた。事実を一つ一つ積みあげて、真摯に心と心の間に論理の橋を築いた。(p168「7 ここまで数学が好きになるとは思わなかった」)

著者のいう「かけ離れた存在」が「手を繋ぐ」ことが、つぎのように表現されてもいる。〈 「うん。だから、数学というのは一つの言語だと思いますね」 / 黒川(信重)先生は頷いてくれる。 / 「日本語とか、英語とか、いろんな言語の一つとして数学というものがあると。この言語を使うとある種の事柄が非常に精密に書ける。そういうことだと思うんです。日本語で容易に扱えることを無理に数学で書く必要はないんだけど、中には数学で書くことで、とてもよく理解できるようになる物事があるわけです」 / 「たとえば、どういったことでしょう」 / 「『何かが存在しない』ということを証明しようとすると、普通の言葉では水掛け論になっちゃいますよね。ないものは見せられない、とか。でも数学であれば五次方程式の解の公式は存在しない、と理論的に示すことができる。ないことを証明するというのは数学の使い方として、一つの定番です」 / 「そういう利点をもった言語、ということなんですね」 / 「そうですね。だから今までになかったことをやるのが非常に得意な言語のような気がするんです。特に僕は誰もやっていないような数学をやるのが趣味なんですね。・・後略・・」(p289「12 世にも美しき数学者たちの日常」)〉

つまり、数学はひとつの言語でありコミュニケーショの道具ということになる。いわば、数学は文系の一種と解釈することも可能と言ってイイ。それだけでも、数学が、だいぶ身近になりオッカナイものではなくなる。しかし、ところが、本書には、数学の怖~い話もでる。先に「宇宙人」と「手を繋ぐ」ために数式があることを引用したが、サハロン・シェラハという「宇宙人(もちろん地球人です)」の数学はフツウの数学者には分からず、フツウ以上の数学者による通訳が必要となるという話だ。そうかと思えば、日本で最も「宇宙人」ぽかった数学者 岡潔が、実はたいへん人間くさい方だったことも示される。滅菌抗菌加工されたかのような(と本書に記されてはいないが)現代数学の批判者であったことも示される。

本書は、数学はわたしたちの周囲に広がる宇宙をなしていて、人の数だけたのしむ道すじのあることに気づかせてもくれる。お勧めである。

2019年5月23日にレビュー

春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫)

春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫)

  • 作者: 岡 潔
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2006/10/12
  • メディア: 文庫



数とは何かそして何であるべきか (ちくま学芸文庫)

数とは何かそして何であるべきか (ちくま学芸文庫)

  • 作者: リヒャルト・デデキント
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2013/07/10
  • メディア: 文庫


以下は『100年かけてやる仕事』からの引用(「第Ⅸ章 日本社会と辞書」p258~261)

100年かけてやる仕事 ― 中世ラテン語の辞書を編む

100年かけてやる仕事 ― 中世ラテン語の辞書を編む

  • 作者: 小倉 孝保
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 2019/03/13
  • メディア: 単行本


古典を深く知ることで面白く読み解くことができる、古典を過去の遺物にするべきでない、と河野(通和)は考えている。そうした考えの背景には、昨今の日本に広がる、便利さや実用性を何より重視する風潮への違和感が潜んでいる。

「『考える人』を編集しているときでした。大学の人文系学問に対して冷たい風が吹いていました。『大学の英文学部ではまだ、シェイクスピアなんて使えない英語を教えているのか』という声も聞こえてきた。何を言っているのかと思いました。実用知に対する過剰な期待と人文知に対する無理解です」

現在、アカデミックの世界でさえ、すぐに役立つ知識への偏重がある。研究の世界でさえ、直接的に役に立ち、経済的な利益が見込めるかどうかが重視される。哲学や史学、基礎科学のようなすぐには役に立たない学問や知識には、「そんなものを研究して何になる」「そんなことを知ったところで何の役に立つのだ」という批判がついて回る。すべては「現実社会で役に立つ」かどうか。特に経済性の観点で役に立つかどうかを基準に計られる。極端にいえば、どれだけもうかるのかのみを基準にすべてが語られる。

しかし、人類史、学問史を振り返れば、科学は人文の派生物として生まれてきたことがわかる。ギリシャの大哲学者、アリストテレスは倫理学から生物学、政治学、修辞学まで幅広く研究している。ピタゴラスにしても研究対象は哲学から数学、音楽にまで及んでいる。そもそもギリシャ時代には哲学と数学は、「実用的な解決に満足することなく、思索そのものを深めていく」という観点で同一線上にあると考えられていた。ギリシャ時代に限らず近代哲学の祖とされるデカルトは数学者でもあった。高名な数学者、岡潔(1901~1978年)もまた、「日本人」について考えた哲学者だった。河野(通和)は言う。

「知というのは、人間の混沌に何らかの答えを求めよう、ヒントを求めようとする活動です。セカンドクラス(2流)の秀才たちが役に立ちそうな学問だけに目を向けて、国ごとその方向にシフトするのはお馬鹿なことと思えたんです。人文知をもう一度、掘り起こしたいとの思いはありました」

役に立ちそうな学問だけに目を向けることへの抵抗ーー。収益をほとんど度外視して中世ラテン語辞書をつくり続けた英国の人々の中にも、こうした意識や感情があったのかもしれない。

河野自身は大学ではロシア文学を学んだ。祖父が英文学、知り合いには仏文学をやっている者もいたが、「人と一緒のことはしたくない、まねをするのは嫌だ」とロシア文学に進んだ。ロシアの文学を学びながら、ロシア語によって消えていった少数民族の言葉について考えることもあった。

「ロシア語帝国主義の犠牲になった言葉がありあます。言葉が消えていくということは、生きた証が消えること、記憶が消えることです。言葉に対する人類の感覚というのは独特のものがあることを覚えておくべきです」

「ほぼ日の学校」の最初のテーマをシェイクスピア、2番目を歌舞伎にした裏には、演劇を対象にしたいとの思いもにじんでいる。単に教義を学ぶのではなく、演劇なら空間の中で語り、いろんな人が関わっていくことが可能だ。観客、テキスト、そして俳優の肉体が同じ空間に存在できる。

中世ラテン語辞書プロジェクトでは編集者たちは実際に体を動かしながら辞書を編集していった。地下鉄に乗って図書館までおもむき、古文献を手に取って、ページをめくり一言一言、目で確認していった。身体と結びついた作業である。こうした身体性について河野はこう言う。

「何を感受するかということでしょうね。情報の受け止め方です。子供が虫の研究をするとします。検索して虫の情報を引っ張ってくるのと、汗をかきながら裏山に登り、泥に脚を取られながら虫について確認する。それらはまったく違う体験です。ラテン語辞書の場合、そこに行って、どう書かれてあったか、どう印刷されていたかを確認することで、それを書き留めた人の体温が伝わってくる。紙の向こうに時代がすけて見える。それが身体性でしょう。脳の一部で情報を受け止めるのではなく五感で受け止める。体を使って受け止めていくこと、頭の中だけで情報を組み立てるのとは違った体験です。体を使うことが基本だと思っています」

後略


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