『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』 奥野 克巳著 亜紀書房 [文化人類学]
ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと
- 作者: 奥野 克巳
- 出版社/メーカー: 亜紀書房
- 発売日: 2018/05/24
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
異文化で、人は哲学者に
異文化に入ると、人は、カルチャー・ショックを受ける。そのチガイがあまりにも大きいと、人は哲学者に変貌するようである。根源的にモノを考えざるをえなくなる。
感謝や謝罪を必要としない、ある意味「ナイ」文化において、「アル」文化にいた著者は考える。考えざるをえない。「アル」日本で考え、「ナイ」ボルネオの地で考え、行き来を繰りかえし、その思索はどんどん深くなる。
本書の各章冒頭で、必ず引き合いに出されるのはニーチェである。ニーチェの著作からのながながしい引用がある。しかし、むずかしくはない(と、言っていいと思う)。なぜなら、引用の後、ニーチェ理解の助けとなる生生しく面白いフィールドでの経験が語られていくからだ。
現代社会のマトモなところ(裏を返せばヘンテコなところ)がつくづく見えて有益である。文化人類学とは何か、そのフィールドワークはどのようになされるのかを知るうえでも役に立つ。
一読して思うに、有益かどうか、役に立とうが立つまいが、読んでオモシロイ本であるのはまちがいない。
2018年8月29日にレビュー
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巻頭『はじめに』において、著者の若い日、文化人類学へ傾倒する「ことはじめ」が語られる。メキシコへ旅をし、先住民と暮らして日本に帰ると、「日本でおこなわれていることが、何もかも虚しく感じられるようにな」る。種々の問題におのずと気づくようになる。そして、「現代日本社会の私たちの周りで進行する諸問題の底の部分には、世界に囚われたかのような思い込みと言っていいほどの前提があるのではないか」と疑うようになる。「思い込み」「前提」「常識」「習慣」に囚われて生きていながら、それを知らずにいて、もがいている。それが、現代社会、現代人というものではないか。
「私たちがそうしなければならない。そうなっていると思いこんでいる習慣や一般常識こそが、実は、問題そのものを複雑化させているのではないか。通念から身を翻したり、世を統べる法に対して無関係な位置に至ることはできないだろうか。思いこみのような前提がないか極小化されている場所から私自身の思考と行動の自明性を、照らし出してみることはできないだろうか。そんなところに出かけて行って、人間の根源的なやり方かについて考えてみることはできないだろうか。そういった思いが、つねに私の頭のなかにあった。」
それで、著者は、「そんなところ」に出かけて行く。狩猟採集生活をしているボルネオ島のプナンの人々と暮らす。しかし、彼らは、原始的な狩猟採集生活をしているわけではない。資本主義の経済の末端に組み込まれていて、「見た目は、現代人とそれほど変わらない」。しかし、著者はいう。「とはいうものの、プナンは、日本を含む現代社会で営まれている暮らしとは『別の可能性』を私たちに示してくれるように思われる。・・略・・科学とテクノロジーに頼って近未来を志向する、現代に生きる私たちにとって、そんなものがほとんど想像されたことがないという点で、新しいのである」。