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アラン著『わが思索のあと (中公文庫プレミアム)』 森有正訳 [哲学]


わが思索のあと (中公文庫プレミアム)

わが思索のあと (中公文庫プレミアム)

  • 作者: アラン
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2018/02/23
  • メディア: 文庫


覚悟して読むしかないのだが・・・

早大名誉教授清水茂先生の読書をめぐる講演を聞いた際、その考えが「ラディカル」であるという表現で、アランを紹介しておられた。と同時に、用いられているフランス語がむずかしく(翻訳次第では、意図がきちんと掴めない)ようなお話もされていた。その「ラディカル」に触れるべく、本書を手にした。

早大名誉教授清水茂先生お奨めの本
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2008-03-03

本書の内容紹介には、次のようにある。〈『幸福論』で知られる哲学者アラン。その柔軟な思考と健全な精神はいかに形成されたのか。円熟期を迎えた著者が師との出会いからプラトン、ヘーゲルなどの哲学、第一次大戦の従軍体験、さらに唯物論、宗教まで繊細な筆致で綴る。稀有な思想的自伝全34章。新たに人名索引を付す。〉

それでまた、その精神形成史をたどるべく本書を手にしたのだが、むずかしい。そもそも、予想にまったく反している。渡部昇一著「青春の読書」のような、師友との交わり、読書の影響を詳細かつ具体的に示していく本ではない。まさに「わが思索のあと」をたどる本なのである。そうした「思索」の中に、私的なことがはさまれているといった具合なのだ。

著者の執筆態度については、冒頭から次にようにしめされる。〈私は打ち開け話を好まない。そのために私は、小説の形式においてすら、私生活に属することは何も〔これまで〕書き得なかったほどなのである。その理由は恐らく、私が私生活のことを考えるのを余り好まないからであるか、あるいはそういうことをしなくても、これまで私生活に別段不足を感じなかったからであろう。私は忘却し、再びやり始めるすべを心得ていた。そしてこのような実践的方法を用うると箴言風(マクシム)のものしか書けないことになる。そういうやり方では、物語(レシ)は寸断されてしまったからである。自らを語らないということは、その場合、忘却へ導く、しかも殆ど容赦するところのない、一種の規則なのである。(p9「少年時代」)〉

だから、そういうものと覚悟して読むしかないのであるが、上記引用部分も、「あるいは」以降、ついていくのが難しくなる。「忘却」「規則」と述べることで執筆姿勢について述べているのだろうように思うが、この部分だけではすんなり分からない。そういう記述が、のちの本文全体を覆っている。「あるいは」などの接続語で、思索を振る。右に左に振りながらヨットが風上に向かうように前進していく、著者の思索に付き合うには、辛抱強さが求められる。

本書を訳出したのは森有正だ。学校時代の授業で森の哲学的エッセイが扱われたときのことを思い出した。そして、そのときの難渋した思いを再び感じた。森はアランの影響をたいへん受けているように感じる。

“古典名訳再発見”シリーズの一冊ということであるが、「再発見」ということであれば、詳しい章・節ごとの解説、注など付してほしいところ・・・。(以下、目次)

少年時代 / 青年時代 / ラニョー / 〔高等師範〕学校 / ロリアン / 政治 / 抽象的思索 / ルーアン / パリ / 『語録』 / プラトン / カント / コント / 暗中模索 / 信仰 / 自由 / 戦争 / 軍隊 / 芸術 / 帰還 / 詩人達 / 聴講者 / 思想と年齢 / ヘーゲル / ヘーゲルとアムラン / 再びヘーゲル / デカルト / 唯物論 / 高邁なる心 / 感情 / 人間嫌いの拒否 / 神々の方へ / 物語 / 諸宗教 新版あとがき 解説・過去の経験を思想化すること(長谷川宏) 人名索引

2018年4月20日にレビュー

幸福論 (岩波文庫)

幸福論 (岩波文庫)

  • 作者: アラン
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1998/01/16
  • メディア: 文庫



渡部昇一 青春の読書(新装版)

渡部昇一 青春の読書(新装版)

  • 作者: 渡部昇一
  • 出版社/メーカー: ワック
  • 発売日: 2018/04/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


かの文学史家〔ブリュンティエール〕でさえも、私には精一杯の好意を示してくれた。しかし私はこの好意に対して、自分でも何故か判らずに、不可解な気まぐれな反抗的所作をもって応酬した。例えば、ユーゴーの著名な一節(天よりの火)

エジプト!真白なる麦の穂波の、限りなく拡がれる

をブリュンティエールの前で註解する段になると、私はその節を声高く、かなりぎごちなく読んだ。そして、呆気にとられた教授を尻目に、私は矢場(やにわ)に全体を批評しはじめた。後になって私は知ったことだが、臨席者たちは憤慨したという。ブリュンティエールは私を助けようと欲した。しかし私は一向にそれに応じようとしなかった。もしこのようなことが私の性格の一つの表れにすぎないならば、私はそんなことは口にしないだろう。いま問題となっているのは、私に生れつきの、私の呼吸そのものともいうべき精神の一つの働きなのである。私がもっている観念、私はそれを否定しなければならぬ。それが私の、〔観念を〕験証する、やり方なのである。もしそれを否定するのが適当でないように私に思われる場合は、その時こそ私は即座にその観念を否定する。何らの懐疑主義もそこには介入しない。それどころではない。かくの如くに認識の樹木を揺すぶることによって、よい果実は救われ、悪い果実はやくざ者に投げやられる、と私は確信している。この否定の精神は、最もしばしば、唯私自身に向かって働きかける。というのは私は他人を排斥したいという気にはならないし、作家達をも排斥しないからである。むしろ私は、最も容易な展開、自ずと開けて行く展開に従うのが自分の眼に恥かしく映じたからだ、と思う。私は、この種の決して報いられない徳を、ラニョーのお手本から得たのだと考えている。突然観念を放棄して危険に身を投じるような習慣をもちながら、どうして自分を保ってこられたのか、自分にも判らない。それは余りにも調子よく行っている文章(フラーズ)を切断するのと殆ど同じことである。かかることは百回も千回も私に起って来た。だから人が私の言うことを聴いて作る最初の観念は、信ずべからざる不統一と混乱を呈している。なお一層信ずべからざることは、私を判断しようとする人々が忍耐深く私を待ってくれたということであった。そのことから私が学んだことは、しかも私はプラトンが冗談半分に言っているのを除いては誰から聞いたことでもないのだが、反対対立こそは思考の働きそのものであり、観念に肉体を与える唯一の手段だ、ということであった。そのことはプラトンが冗談半分に素描した、暑さと寒さ、重さと軽さ、大きさと小ささのようなかの反対なものに著しい。このことを考えた挙句、私はついに、これらの反対なものは相互に内属しており、一物体が小さいと判断することは、同時にそれが大きいと判断しなければ、不可能である、ということに気がついた。・・・略・・・
(以上、p46~48、 〔高等師範〕学校 から)

かくて私は書くことの幸福を識った。この勉強は『語録(プロポ)』に到るまで続けられた。私はスタンダールの中に、かれが余りにも遅く知ったと告白している次のような格率を発見していかに狂喜したことか。「毎日書くこと、天才であろうとなかろうと」。・・・略・・・

(以上、p82、政治 から)
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