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『動物殺しの民族誌』 シンジルト、奥野克巳編 昭和堂 [文化人類学]


動物殺しの民族誌

動物殺しの民族誌

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 昭和堂
  • 発売日: 2016/11/15
  • メディア: 単行本


自ら慣れ親しんできたものとは全く異なる世界を追体験し、多様な生命観、環境観の存在に気づき、自己と他者、死と生をめぐる思考を深めることができる

『動物殺し』とは、物騒なタイトルである。そして、それに『民族誌』が付言されている。「民族誌とはフィールドワークという経験的調査手法を通して、人々の社会生活について具体的に書かれた「体系的体裁によって*」整えられた記述のこと」と池田光穂氏(本書第2章を担当)はいう。なるほど、本書を通読しての印象と重なるもので、わかりやすい。

http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/990204dokkai1.html

どっしりと重い内容である。本書『序』を記しているシンジルト氏によると、「『世界屠畜紀行(内澤旬子 2007)』が世界の屠畜事情に関する日本初のルポルタージュだとすれば、本書『動物殺しの民族誌』は、世界の動物殺しを主題化した日本初の学術書になるだろう」と書いている。そして、「本書は、家畜のみならず、野生動物を殺す行為も扱う。また、食べるための狩猟・漁撈・屠畜はもとより、神に捧げるための供犠も射程に収めており、これらの行為すべてを本書では『動物殺し』という用語で表す」とある。そして、実際には、さらに「動物殺し」が敷衍されて、「嬰児殺し」「棄老」「ホロコースト」といった「人殺し」も範疇に入ってくる。

シンジルト氏の『序』は、「2009年に出版された絵本『いのちをいただく』が日本国内で広く読まれ、多くの感動を呼んだ」ことから始まる。そして、「なぜ、当然のことしか言っていない絵本が、これほど広く受け入れられたのだろうか」と疑問を呈しつつ、その社会的意義として「日本では、屠る現場が不可視な存在にされ、屠るという実践が日常生活から除外されており、その結果、命と肉のつながりは分断されているのである。家畜を屠るあるいは殺す現場を描き、殺しという実践そのものに対する理解を国民一般に呼びかけたこと」であると記している。その後、各章の要約を記したのち、最後をこう締めくくる。

「多くの人は、自らが持つこの種のネガティブな感覚を、世界共通のもので、人間が生得的に持つ本能によるものだと思い込んでいる。しかし、おぞましく感じることの是非はともあれ、動物殺しをめぐる特定の感覚自体は決して人間の本能によるものではない。このことを読者に伝えるのが本書である。読者は、自ら慣れ親しんできたものとは全く異なる世界を追体験し、そこにみられる多様な生命観、環境観の存在に気づき、自己と他者、死と生をめぐる思考を深めることができるであろう」。(以下、目次)

序 肉と命をつなぐために シンジルト

第Ⅰ部 動物殺しの政治学 / 第1章 儀礼的屠殺とクセノフォビア(残酷と排除の政治学)花渕馨也 / 第2章 子殺しと棄老(「動物殺し」としての殺人の解釈と理解について) 池田光穂 / 第3章 殺しと男性性(南部エチオピアのボラナ・オロモにおける「殺害者文化複合」) 田川玄 

第Ⅱ部 動物殺しの論理学 / 第4章 狩猟と儀礼(動物殺しに見るカナダ先住民カスカの動物観) 山口未花子 / 第5章 毒蛇と獲物(先住民エンベラに見る動物殺しの布置) 近藤宏 / 第6章 森と楽園(ブラガの森のプナンによる動物殺しの民族誌) 奥野克巳

第Ⅲ部 動物殺しの系譜学 / 第7章 供犠と供犠論(動物殺しの言説史) 山田仁史 / 第8章 狩猟・漁撈教育と過去回帰(内陸アラスカにおける生業の再活性化運動) 近藤祉秋 / 第9章 優しさと美味しさ(オイラト社会における屠畜の民族誌) シンジルト /後記、索引

2017年2月16日にレビュー

絵本 いのちをいただく みいちゃんがお肉になる日 (講談社の創作絵本)

絵本 いのちをいただく みいちゃんがお肉になる日 (講談社の創作絵本)

  • 作者: 内田 美智子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/12/03
  • メディア: 単行本



世界屠畜紀行

世界屠畜紀行

  • 作者: 内澤 旬子
  • 出版社/メーカー: 解放出版社
  • 発売日: 2007/01
  • メディア: 単行本


以下、シンジルト氏による『序』に示されてある、1、2、3章の要約など(他の章も記述されてあるが、省略)

・・・・・・・・・・・・・・・

第1章では、フランスを中心に現代ヨーロッパにおける「儀礼的屠殺」をめぐる問題が論じられる。ユダヤ教徒やイスラーム教徒は宗教的戒律に基づき、気絶処理を行わない屠殺方法を採用しており、この方法は儀礼的屠殺として位置づけられている。ヨーロッパ諸国では、動物保護思想の広まりにより、動物に苦痛を感じさせないための配慮として、気絶処理を行う義務が法制化されてきたものの、儀礼的屠殺は特例としておおよそ認められてきた。ところが、20世紀末、イスラーム系移民増加の問題が浮上すると、儀礼的屠殺はフランスの普遍的なるものに馴染まない野蛮な慣習として有徴化され、その残酷さへの批判がクセノフォビア(外国人嫌悪)と結びつき、他者排斥運動として展開されるようになった。花渕馨也は、屠畜という行為が日常から隠蔽されるとともに残酷なイメージが与えられるようになった感性の歴史や、ナチスドイツがユダヤ人の屠殺方法を残酷で非人道的なものとして攻撃するプロパガンダによっていかにホロコーストを正当化したかという事実にも言及しつつ、今日のヨーロッパにおける動物殺しと移民排斥をめぐる文化政治学について論じている。どのような状況において特定の動物殺しの仕方が問題化されるかだけでなく、いかにそれが政治的暴力と結びつきうるのかを考えさせる論考である。

第2章では、現代社会の倫理道徳からすると決してその存在が許されない、子殺しや棄老といった人殺しの問題を取り上げている。具体的には、南米パラグアイの熱帯森林に生きる狩猟民のアチェ(グアヤキ・インディオ)社会について、フランスの民族学者ピエール・クラストルが1960年代に著した民族誌を再読しながら、当時のアチェ社会においてある意味で黙認されたこれらの人殺しの特徴を解析する。池田光穂は、人々がある対象を殺す際に、その対象にそれまで所属していた範疇から排除し、自分たちとは異なる存在として他者化することで「殺す」ことが可能になるという点に着目する。その上で、そうした実践が、屠畜の際に、犠牲になる家畜に呪文を唱えたり、聖水や花びらをかけたりして聖別する行為に似ていると分析考察する。関連する民族誌の地道な再読作業を通じて、池田は、人殺しと同格とされる「動物殺し」に関する質的理解を深めようとしている。

第3章の舞台はアフリカに移る。にわかには信じがたいが、南部エチオピアのボラナという牧畜社会においては、家畜を供犠すること、野生動物を仕留めること、嬰児を遺棄すること、敵対集団の人間を殺すことなど、形を変えながら多種多様な「殺害行為」が行われている。それらの目的は、たった一つである。すなわち、男性性の獲得である。そこでは、動物殺し(植物殺しも含む)と人殺しは最初から密接に関連しあっており、一種の文化現象を成している。ボラナにおいて、男性は、何ものかを殺害しながらライフステージを移行し、男性性を獲得することを期待される。ここでいう男性性とは「男であること」と「父親であること」を意味するが、前者は個人として狩猟と戦いで勇敢さを示すことによって、後者は世代組の年長者による嬰児遺棄と供犠を伴って獲得されている。ボラナ社会では、動物殺しと人殺しはもはや別個のものとして論じることが困難である。田川玄は、現地調査の経験を活かしボラナの供犠、狩猟、嬰児遺棄、戦いを民族誌的に描き、男性性の獲得をめぐって、それらの諸要素がどのように関係しあっているかを明らかにする。

人殺しは、他者を排除あるいは支配するための究極の行為であり、そこには権力が欠かせない要素として作動しているという意味で、政治的なものである。そのような人殺しと隣りあう動物殺しが人々の関心を呼び、問題視されているのも、政治的だからである。いわば動物殺しに見られる政治学の構造をつかみとるのが第Ⅰ部であった。

わが国の狩猟法制―殺生禁断と乱場

わが国の狩猟法制―殺生禁断と乱場

  • 作者: 小柳 泰治
  • 出版社/メーカー: 青林書院
  • 発売日: 2015/02/01
  • メディア: 単行本



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