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日本の「アジール」を訪ねて: 漂泊民の居場所 / 筒井 功著 河出書房新社 [民俗学]


日本の「アジール」を訪ねて: 漂泊民の居場所

日本の「アジール」を訪ねて: 漂泊民の居場所

  • 作者: 筒井 功
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2016/10/24
  • メディア: 単行本


「漂泊民の居場所」は、現代社会の「アジール」にも見える

戸籍に名前が記載され、特定の住所に住まい、国家の成員と認められ、(法令に従い、税金を納める代わりに)国家の保護を受ける人々とは異なる「漂泊民」が、かつて日本の各地に居たという。本書は、その跡をたずね取材した報告・研究である。

著者は、本書中で柳田國男、宮本常一、三角寛の批判をおこなう。各地を歩き、「漂泊民」の見聞を集めるなかで、それは出てきた批判だ。「サンカ」研究で著名な三角寛の博士論文『サンカ社会の研究』にいたっては「虚構と作為に満ちた、およそ研究などとは無縁の代物であった。そこには事実とみなしうることは、ほとんど含まれていない(p115)」とまでいう。そもそもが、隠れるように生活し跡を残さないように生きてきた「漂泊民」の“真実”を描こうとするのは、たいへん難しいものであることは想像できる。とはいえ、意図的に“真実”を作為するのは当然とがめられてしかるべきことにちがいない。本書に関していえば、たんなる私見、推測の領域にあることは、それなりのものとして記述が進められていく。そうした著者の姿勢は評価できるし、また、本書に示される柳田・宮本・三角批判は、道理にかなっているように思われる。

たとえば、宮本常一の『山に生きる人びと』にある「かったい道」を「山村伝説」と著者はいう。その根拠を示したうえで、宮本が出会ったレプラ患者について次のように記述する。《彼女が旅慣れていたことは疑いない。というより、久しいあいだ漂浪者の暮らしをつづけていたのではないか。症状の進み具合から考えて、ずっと前に家を出てあちこち放浪していた可能性が高い。だからこそ、100キロを超す道のりを宿にも泊まらず歩けたのであろう。だが、それにしても、なぜ「伊予のなにがし」へ行こうと決意したのだろうか。むろん、はっきりしたことなど、わかるはずがない。しかし、ある程度の想像はつく。女性は、例えば栃木県矢板市郊外の仏沢のような非定住民のセブリを目指していたのだと思う。/ 「伊予のどこそこには、あんたのような病気の者でも気がねなく暮らせるところがある」 / 物乞いをしながら各地を転々としているとき、そう教えてくれた仲間があったのではないか。非定住民たちは、その種の情報に通じており、またお互い情報を交換し合っていた。仏沢の「若さん」一家や、「江州」と妻テルも、そうやって高原山の麓の雑木林へ身を寄せていたはずである(p94)》。

「北海道」の命名者として知られる探検家:松浦武四郎『飛騨紀行』中の経験も興味深い。岐阜で病を得たおり、「乞食、山家」の世話になったという。その後《辻堂で会った「山家」が三日目によそへ移るに際し、これからの旅先で自分のようなサンカに出会ったら「郡上の爺」と三日ばかり同宿したことがあると言え、と教えられたと述べている。実際、・・・サンカを見かけるたびにそうしたところ親切にしてもらい、「今筆を取るも涙こぼるる斗なり」と書き残している(p186)》。

評者自身、「サンカ」について知ったのは、小学生のころ読んだ 椋鳩十の著作においてである。なにか不思議な魅力を発するものに出会った覚えがある。その魅力がなにかよくわからぬままきたが、どうも国家の統制から自由であるところにその魅力はあるようである。しかも、そこには「仲間」としてのつながりがあり、ゆるいコミュニティーを成していたようでもある。

思うに、かつてあった「漂泊民の居場所」は、現代社会の「アジール」にも見える。

2017年1月12日にレビュー

椋鳩十の本 第2巻 鷲の唄―山窩物語

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  • 作者: 椋 鳩十
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  • 発売日: 1982/06
  • メディア: 単行本



椋鳩十まるごと動物ものがたり 全12巻

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  • 出版社/メーカー: 理論社
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  • メディア: 単行本



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