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『乾浄筆譚 1 朝鮮燕行使の北京筆談録 (東洋文庫)』 洪 大容著  [自伝・伝記]


乾浄筆譚 1: 朝鮮燕行使の北京筆談録 (東洋文庫)

乾浄筆譚 1: 朝鮮燕行使の北京筆談録 (東洋文庫)

  • 作者: 洪 大容
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2016/11/14
  • メディア: 単行本


清朝・乾隆帝時代の中国・朝鮮知識人たちのあり様を知ることができる

清の乾隆帝の時代、属国であった朝鮮の知識人(洪 大容 ホンデヨン)が、友を国外に求め、北京の乾浄という名の街路にある宿舎で、筆談によって中国人と交際した記録。

当時、漢民族は、満州族から辮髪を強いられ、清朝を批判する言説など到底できない状況だった。朝鮮はといえば、辮髪を強いられることもなく、明時代の装束を身につけるなどずっと寛容な取り扱いを受けていた。それゆえ、朝鮮知識人は、自分たちが明の後継者であるかの意識をもち、清に隷属する立場の漢民族を(同じ立場にありながら)見下す気分があった。

洪 大容 は、同じ儒教を奉じる者として腹蔵なく話し合える友を必要としていた。朝鮮国内では話にくいこともあったのである(その点は、『解説』燕行の動機に詳しい)。燕行(清への朝貢)に連なって北京に赴いたおり、眼鏡が縁でたまたま知り合った中国知識人・科挙試験のため北京に来ていた杭州出身の厳誠らと知り合う。

厳誠らとの交わりがムズカシイものであったこと、洪 大容の友を選ぶメガネが厳しいものであったことは『解説』からわかる。厳誠らと出会う前 《『 乾浄衕筆談』では、洪 大容は、紫禁城東華門の路で翰林院の官僚二人とめぐり遭って語り、その後彼らの家を探し出して訪問し、問答をしたのだが、文学の出来が極めて劣っていた。また中国人だ外国人だという区別の問題、つまり満州族による中国支配の問題で二人を恐れさせてしまい、話の内容も卑俗であったので、交際するまでもないと考え、一度二度会っただけでやめたという》。この後、厳誠らと知り合い、礼をつくした、そして腹蔵のないやりとりが展開するのである。

本書から、当時の科挙制度や中国、朝鮮の知識人のあり様を知るだけでなく、ありのままの姿が想起できて愉しい時間を過ごせた。それもひとえに、夫馬 進京大名誉教授の注・解説によるところ大である。その『解説(1 東アジアの奇書、2 洪大容、その人となり、3 燕行の動機、4 三人の中国知識人 5 『乾浄衕会友録』 から『乾浄筆譚』へ、6 おわりに)』自体が、たいへん詳しい、ひとつの読み物となっていることも明記したい。

2017年1月12日にレビュー


[PDF]洪 大容と清朝 ー 洪大容の学者像と学問観  小川晴久
https://nishogakusha.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=665&item_no=1


朝鮮燕行使と朝鮮通信使

朝鮮燕行使と朝鮮通信使

  • 作者: 夫馬 進
  • 出版社/メーカー: 名古屋大学出版会
  • 発売日: 2015/03/07
  • メディア: 単行本


http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0800-6.html以下のような、率直なやりとりがなされている。

**********

私は呉西林先生の徳について詳しく教えてくれるよう言った。厳誠は、

「西林先生は杭州艮山門の外、二キロほどのところにお住まいです。著書として『吹ヒン録』八十巻があり、七回自分で書き直して定本とされました。全部が音楽のリズムについて論じた書です。また『説文理薫』四十巻を著述しておられますが、まだ未完成です。私も校正をお手伝いしたことがあり、ちょっとした議論にあずかったこともあります。先生は自分を虚しくして何でも受け入れられる方で、是非を論じることなく、一条一条その書物の中に列記しておき、最終的に採択するかどうかに備えるのをよしとされます。ですから私も時々議論して反駁することがありますが、先生は自分に逆らっているとはされません。その詩は漢魏盛唐のものを手本とされますが、ただ詩作にあたっての格式が厳しすぎます。ですから近人の詩を先生の目からご覧になれば、上手くできてはいるが一点の問題もない、というのはほとんどありません。p81

お母さんに事えられること、至って孝であります。先生が六十歳になられた時、お母さんは九十歳になっておられました。しかし夕暮れ時に帰宅すれば必ずお母さんのいらっしゃるところへ行かれました。お母さんはすでに失明しておられましたので、手で頭をなでられます。先生は奥さんを早く亡くされ、三十年間一人暮らしでした。夜、母親の眠りをそばで見とられ、背中の痒いところを掻いたり肩を叩いたりすることはすべて自分でされ、下女や妾たちにまかせられませんでした。三年間、お母さんが亡くなりますと、哀しみのあまり体を傷め、骨ばかりで立っておられるようになりましたが、母を慕うこと、子供のようでした。ただ一つ、仏教好きという病気があります。ですから仏教経典についてはすべて精通しておられます」

と言った。私は、

「高い徳とこの上ない行いとは、人をして発憤させますが、仏教好きとは残念です。尹和靖が『金剛経』を読誦したようなことはないのでしょうか」

と尋ねた。厳誠は

「もっとひどいでしょう。『楞厳経』など先生は大好きで、因果応報のこともよく話されます」

と言った。私は、

「『楞厳経』で心を論じているところには、極めてよいところがあったとしても、因果応報となるとあまりにバカバカしい。呉西林先生のために残念に思います」

と言った。厳誠は

「この経典は私も読むことが大好きです。このお経で心を治めるのは、最もよろしい。その心を論じたところは、わが儒教とほとんど区別がないとはいえ、やはり大いに違ってくるのは、空に陥る点です」

と言った。私が、

「わが儒教において心を論じるだけで有意義ですのに、何でわざわざこれを外道に求める必要がありましょう」

と言うと、厳誠は、

「仏教では『楞厳経』、道教では『黄庭経』ですが、わが儒教では「忿を懲らし慾を塞ぎ、軽を矯め惰を警しむ」の八字です。私が儒家の方から得たものといえば、こんな程度にしかすぎません。『大学』でいう「心を正し意を誠にす」となると、今のところまだ難しすぎます」

と言い、また、

「私が『楞厳経』を読むのは、病気で危うくも死に直面した時、すこぶる心身において裨益されるところが大きかったからですが、また一包の清涼剤でもあるからです。その時、この身が仏教でいう地水火風という四元素の化合物である以上、何事として捨てられないことがあろうか、ということに気がつきました。これによって病気が治り、その後二度とこの病気が起こったことはありません。しかし私は簡単に外物に心を乱される者でして、ちょうど『楞厳経』に出てくる阿難が多聞、つまり大変な物知りであるのに色香に迷わされたのとよく似たところがあります。『楞厳経』を読んで、その効能たるや、ぴたりと病弊に命中していることがわかりましたので、時折これをながめ見るだけです。今になってやっと、私にはこれが儒教の書には遠く及ばないとわかりました。またこの種の道理は、儒教にあっては至って切実かつ平易であります。それを何も、遠く仏教のごとき異端に求める必要はありません」

と言った。私が、

「晩くなっても仏教や道教から逃れ出られるのであれば、結局のところ醇正なところへ帰るのに何の問題もありません。仏教に心が向かって返らない、ということのないよう、お願いいたします」

と言うと、・・・・
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