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『シェイクスピア - 人生劇場の達人』 河合 祥一郎著 中公新書 [文学・評論]


シェイクスピア - 人生劇場の達人 (中公新書)

シェイクスピア - 人生劇場の達人 (中公新書)

  • 作者: 河合 祥一郎
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2016/06/21
  • メディア: 新書


「シェイクスピアの広大な世界へ旅する際の道標」

シェイクスピアその人について、その演劇について知るたいへん良い入門書。《個々の公演の魅力は、実際に劇場へ足を運んで体験するよりほかないが、シェイクスピアとはどのような人だったのか、全体としてどんな作品世界を描いたのかを知るには書物をひもとくのが一番だ。それを明らかにするのが本書の狙い(「まえがき」)》とあり、《この小書が、読者諸賢がシェイクスピアの広大な世界へ旅する際の道標となってくれることを願っている(「あとがき」)》とある。実際、その目的をたいへん深いレベルで果たしているように評者は思う。

シェイクスピアの生い立ち、家庭環境、そして、当時のイングランドの時代背景、その複雑な宗教事情が記される。カトリック弾圧の影響下、町長、参事会員であった父親は栄誉を剥奪される。身近に極刑を受けるものも出る。そんな中、ウィリアムはストラットフォード・アポン・エイヴォンから失踪する。

シェイクスピアは謎の多い人物だが、ウィリアム・シェイクスピアと徳川家康に重用されたウィリアム・アダムズ(三浦按針)とが同い年で、シェイクスピアと家康は同年に没したという話題もでる。失踪後のことについて、いろいろ説はあるものの著者の紹介する説は無理のない展開に思える。遠い印象のあったシェイクスピアがだいぶ近い存在になった感がある。

『シェイクスピア・マジック』と題された第4章にみる当時の演劇空間や台詞回しについての説明は興味深い。演劇空間は能・狂言と近似するものであること、「せりふは詩として朗唱すべきもの」であったことが(英文引用をもちいて)示される。読んでナルホドと思う。歌舞伎における河竹黙阿弥の五七調のせりふが思いに浮かぶ。また、名を成すまでは、シェイクスピアも複数人で作劇するなかの一人にすぎなかったことや現在著名な作品には元になる先行作品があったということから近松門左衛門を想起させられもした。

喜劇を扱った5章、悲劇を扱う6章は、それぞれ主要作品の良い案内であるだけでなく、シェイクスピアの作劇上の基層にある考え方を示して興味深い。7章は、シェイクスピアの視線・まなざしが哲学される。評者の言葉でいうと、シェイクスピアにとってのリアルとは何かという問題に帰着しそうだが、どうか・・・。

ボルヘスはシェイクスピアを評して、「彼のなかにはだれもいなかった」と述べたという。その言葉が、ずっと頭のすみにひっかかってきたのだが、本書の帯には『万の心をもつ』作家と記されてある。本書をふかく読み込むと、ボルヘス評の意味を理解できるかもしれない。

2016年8月15日にレビュー

紫式部とシェークスピアの共通点
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-02-28

ウィリアム・シェイクスピア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A2


シェイクスピアの自由

シェイクスピアの自由

  • 作者: S.グリーンブラット
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2013/10/11
  • メディア: 単行本


ヒュポリテ あの恋人たちのお話は、不思議ね、テーセウス。
テーセウス 不思議すぎて本当とは思えない。馬鹿げた昔話や、/ 妖精の出てくるような御伽噺など、とても私には信じられない。/ 恋する者は、狂った者同様、頭が煮えたぎり、冷静な理性には理解しがたい/ありもしないものを想像する。/ 狂人、恋人、そして詩人は、/皆、想像力の塊だ。>(第5幕第1場)

テーセウスが不思議すぎてとても信じられないと言い、「冷静な理性には理解しがたい」と言っている点が重要だ。テーセウスはあくまでもストア派が信奉する理性を基準に考えるのだ。これに対してヒュポリテは次のように話す。

ヒュポリテ でも、昨夜のお話を聞いていると、/ 皆の心が一緒に変貌してしまったことは、/ 単なる夢幻とは思われず、/ しっかり筋の通った現実であるような気がしますが、/ それにしても不思議で信じがたいことです。>(第5幕第1場)

文芸評論家アントニー・D・ナトールは、『考える人シェイクスピア』(2007年)のなかで、このヒュポリテのせりふに触れ、これは18世紀の経験論者デイヴィッド・ヒュームの考えと同じだとして、次のような説明を加えている。

夢や心のイメージはその内容においてリアルではないーーつまり、冷蔵庫にアナグマがいる夢を見てもそれがリアルでないのは、冷蔵庫のなかにはアナグマではなくて干からびたクロワッサンが入っているからだが、人が実際にそのような想像をしたり夢を見たりするという点ではリアルなのだーーたしかに私はアナグマについて生々しい夢を見たということがリアルなのだ。この単純な議論に従えば、〔ヒポリュテの言う〕「単なる夢幻」は明らかにリアルだ。

つまり、ボトムが「人間の目が聞いたこともない、耳が見たこともない、手が味わったこともない、舌が考えたこともない、心が語ったこともない・・・底なしにすげえ夢」(『夏の夜の夢』第4幕第1場)を見たというとき、ボトムはその「夢」にはっきりとリアルを感じたのである。ナトールの論議にしたがえば、それこそがリアルの本質だということになる。しかも、ボトムの夢が実は夢ではないと知っている観客は、ボトムがリアルに感じたのは当然だと思うことになる。

シェイクスピア学者スティーヴン・グリーンブラッドは、その著書『シェイクスピアの自由』(2012)の最後で、このテーセウスの一節を引用したうえで、詩人の知覚の絶対的な自由さを語る。そして、そのシェイクスピアのものの見方の自由さは、現実を超越した詩人の物の見方に真があるとするシドニーの発想(『詩の弁護』)と同じであると論じつつも、テーセウスは狂人・変人・詩人の想像力を蔑視していると指摘する。すなわち、テーセウスは日常的な現実にこだわりすぎており、想像力がとらえる現実とは実はボトムの夢のようにわけがわからないものなのだということである。

演劇の力は信じる力

私たちの日常はロゴス(理性)に支配されることが多いが、演劇は理性と対立する感性の世界においてその力を発揮する。そして、そこでもっとも重要となるのは想像力だろう。今日言うところの想像力ではなく、エリザベス朝時代の想像力だーー強くイメージした心象(ファンタズマ)は、現実そのもののインパクトを持つのである。そして、時には、新たな現実そのものをも生み出す力さえ持っている。

『冬物語』の最後に重要なせりふがある。シチリア王リオンティーズがあらぬ嫉妬から妃ハーマイオニを失って16年。後悔に後悔を重ねて生きてきた16年目に、王は亡き妃の彫像を目にし、あまりにも本物そっくりなその出来栄えに感動する。そして、妃の侍女ポーリーナが「この石の像を動かして見せましょう」と言って、こう命じる。

信じる力を呼び起こして頂けなければ
なりません。そして、じっとしてください。(第5幕第3場)

果たして、ポーリーナの「もはや石であるのをおやめください」という言葉に応じて、石像は動きだし、死んだはずの妃は王のもとへ戻ってくる。

ストア派の努力は立派だが、コーディリアの例が示すようにうまくコミュニケーションがとれない独善に陥る危険がある。さまざまな人々の生きざまを描いてきたシェイクスピアだが、最後に到達したのは「信じる力」の大切さだった。

信じる力ーーそれは演劇の基本要素であるのみならず、私たちの人生を支える力だ。人は常に明日を信じて生きる。「信じる」行為には、新たな世界を拓く力があることを、本書を最後までお読みくださった読者はおわかりいただけるだろう。

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以上、第7章『シェイクスピアの哲学ーー心の目で見る』 p230-232
シェイクスピア - 人生劇場の達人 (中公新書)

シェイクスピア - 人生劇場の達人 (中公新書)

  • 作者: 河合 祥一郎
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2016/06/21
  • メディア: 新書



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