『天皇畏るべし-日本の夜明け、天皇は神であった』小室直樹著 ビジネス社 [人文・思想]
失われていた権威と威力を、明治になって、天皇がふたたび持ちえた背景を知ることができる
30年前(1986年)に文藝春秋社から発行された『天皇恐るべし』の復刊。脚注が付され、印字ポイントも大きめで読みやすい。
倫理的、哲学的、宗教的においの強い、しかも、深い論議を、これだけ軽妙にやすやすと、まるで屋台店でチューハイをあおりながらでもするかのように語れるのは小室さんをおいて他にいないのではないかという思いがする。
イスラム法による石打ちの刑(死刑)に処せられる美女について記す際に「詳しく書くと、小学生の読者が引き付けを起こすと困るので・・」とあるところを見ると、読者として著者に想定されているレベルがわかる。かといって、やさしい内容では決して断じてない。それでも、幾何の証明問題に「補助線」をつかうと、思わぬ解決が得られるように、著者は「補助線」を引いて読者を助ける。それは、水戸藩・栗山潜鋒の『保建大記』であったりする。たった1本の線がなんという理解につながるのだろうと驚く。ずるいじゃないかと思う。しかし、その線一本を引くためにどれだけの教養が必要であろうかとため息がでる。
日本の天皇(明治以降~敗戦までの「現人神」時代)は、キリスト教における神に相当するという内容だ。絶対の権威をもつ存在だ(った)という。権威は(支配)力を伴う。そのことを、キリスト教の三位一体“説”(の立場)から著者は論じていく。日本がアジア諸国のなかで欧米帝国主義を撃退し(単なる西欧化でなく)近代化をはかることができた唯一の国であることを例にあげる。国民の習俗・習慣(民法)を変えることと近代化とは関係するが、諸国が失敗するなか至難の業を成し遂げえたのは、天皇の権威によるという。
平安時代末、天皇の権威が失墜して武家社会に移行する。一度、失墜した権威がふたたび明治になって蘇える。「臣民」(儒教によるものではなく、日本独自の概念)に力を及ぼすようになる。なぜか?それは、単に「日本社会が空気支配の社会であるというだけの理由によるのではな」く、「天皇イデオロギーが正統派イデオロギーとして完璧なまでに、理論的作業が為されていたからである」と述べる。
その「理論的作業」をはじめ、「天皇が畏るべ」き存在となった背景にあるモロモロに迫るのが本書といえる。
2016年6月23日レビュー
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