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松坂和夫先生の数学講義とテキスト(『数学まなびはじめ第3集』から)


数学まなびはじめ 第3集

数学まなびはじめ 第3集

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 日本評論社
  • 発売日: 2015/07/23
  • メディア: 単行本



上記イメージ書籍中、新井紀子教授〈「夢のヒヨコ」を歌いながら〉に、紹介されてあるふたりの先生は魅力的だ。先の更新で、そのおひとり阿部謹也先生に関する部分を引用したが、もうお一方松坂和夫先生についての部分を、以下に引用してみる。先生その人自身、たいへん魅力的な方なのであろうが、新井教授の魅力的な記述によって、その魅力が倍加している。

以下、引用

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もうひとつ思い出すのが、松坂和夫先生の数学の講義である。松坂先生の講義を一言で表現するなら、公平、という言葉が一番似合うと、私は思っている。生徒に対して公平というだけではない。言葉に対しても、定義に対しても、例ひとつに対しても、公平さが貫かれていた。どこを面倒くさがり、どこに熱を入れるということもなかった。そのような公平さを保ちながら、半年あるいは1年の講義をすること、あるいは教科書を書くことがどれだけ困難な仕事であるかは、一度でも教壇に立ち、物を書いたことのある人であれば、誰でも知っていることだろうと思う。先生の講義は常に非常によく準備され、計画されていたから、その場でわからないことがあっても、家に帰って、ノートに書いてある定義と証明を何度も読み返せば、私のような者でも、「数学がわかる瞬間」が必ずやってきた。そうして復習しているうちに、数学自体も、ただ天から降ってきたものではなく、多くの人々、それは数学者だけでなく天文学者や技術者によって何度も見直された結果、あたかも自然に発生したもののように現在という時を迎えていることを感じずにはいられなかった。松坂先生は、形として、あるいは言葉として講義の中で主張するようなことはなかった。あくまでも、淡々と、過不足なく、よく計画された講義を進められるのだった。アクロバット的な証明やシニカルなスタイル、天才数学者のエピソードなどは、先生の講義には不要だった。それは、今思うに、言葉をあれやこれやと足さずとも、数学とはその力で学生の中に多くのものを伝えるはずだ、という先生の中にある数学への信頼によるものであったのではないかと思う。

岩崎(史郎)先生が、かつてある学生に集合や位相の入門書には何がよいか、と尋ねられたとき、松坂先生の『集合・位相入門』を勧めたそうだ。すると、その学生が

「実は、その教科書を読んでいるのだけれども、わからないんです」

と告白したそうで、そのとき、岩崎先生は「うーん」と絶句した後、

「それじゃあ、あきらめるよりしょうがない」

というようなことを答えたのだと聞かされた。そのくらい、松坂先生の教科書は、どれも平易で、全体が非常によく計画され、バランスが取れた教科書なのである。すべての教科書が、高校の数学Ⅰ程度を履修した生徒が読者として想定されている。学校に通っていなくても、先生についていなくても、他の参考書を買う金銭的な余裕がなくても、その本さえ頼りに繰り返して読みさえすれば、過不足なく理解がおとずれるように書かれている。教科書とは、著者の手を離れたとき、誤読を引き起こさないように書かれていることが大切だと先生は考えていらっしゃるようであった。だから、語順、接続詞の選択から始まって、定義の順の適切さなど、先生は何度も何度も検討される。先生は、殊に数学用語の訳に非常に敏感であった。無理な訳語をつけると、そこから初学者がナイーブにイメージするものと、数学の定義が想定しているものにずれが生じてしまうからである。数年前に、松坂先生の『解析入門』と『数学読本』というシリーズが刊行された。『数学読本』を読んだある読者から、書店を通じて先生のもとに質問が届いたことがあった。それは、読者の思い違いによるものであったが、先生は「誤読を引き起こした」ということを少し反省していらした。先生は、その読者に解説の手紙を書かれた。しばらくして、相手から「なるほど、わかった」ということと、数学の本がこんなに楽しかったのは初めてだった、という内容の感想が届いたと聞かされた。私が子どものころ、浅間山荘事件という社会を震撼させた事件があった。その読者というのは、事件の首謀者として逮捕され刑の執行を待つ人であった。そういう人が最後のときを過ごす場所にも届き得る潜在的な力を数学は持っている。その潜在力を信頼するならば、天才数学者の奇行などというエピソードや下手な説教はかえって害であろうと思う。普遍というのは、そういうことではないか。


問うことに真剣になること、そして、数学、つまりは、人間が考える、ということの力を信頼してゆだねること、結局、それが、私の「教える」スタイルになった。スタイルというよりも、実は、それ以外に教える方法は知らないのだ。

p56-8
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数学読本〈1〉数・式の計算/方程式/不等式

数学読本〈1〉数・式の計算/方程式/不等式

  • 作者: 松坂 和夫
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1989/10/27
  • メディア: 単行本






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