交戦中の国(日本)に対する米大統領「ルーズヴェルトのことば」(都留重人・鶴見俊輔対談から)
上記書籍中に、都留重人と鶴見俊輔の対談が出ている。
都留は、鶴見の恩師といっていい人だ。鶴見自身、『悼詞』のなかでそのように記しているように思う。戦前、日本からアメリカに渡り、ハーヴァード大に入学したとき、鶴見少年の面倒をみたのは都留である。日米の戦争が始まったとき、『日米交換船』で、勝つ見込みのない日本に帰国したのも一緒だった。
都留重人(ウィキテディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E7%95%99%E9%87%8D%E4%BA%BA
その都留が、ルーズヴェルトから直接聞いた駐米日本大使のことばを、対談中かたっている。米大統領は、交戦中の国を、既に、将来の同盟国とみなしていたようである。
『ワシントンハイツ』の著者:秋尾 沙戸子が「地球規模で将来像を描き、今も戦略を立てている」という国の首長ならではの話なのであろう。
「ワシントンハイツ」 秋尾沙戸子著
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2010-12-09
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以下、『昭和を語る』晶文社発行
鶴見・都留の対談「ルーズヴェルトのことば」
〈転換は1947年〉p14-5から抜粋
都留:しかし昭和22年の終わりごろには、アメリカの占領政策が根本的には変わってきましたからね。変わって来た段階では、どのようにかして日本の経済をもう一度盛り立てて、賠償計画はなるべく切りつめて、日本をむしろアメリカの子分として、アジアにおけるアメリカの役割の一端を担ってもらおうという方向にすすんだから、そのときには、日本の保守的な官僚陣とアメリカの政策とのあいだには根本的な一致が見られるようになったんじゃないですか。ですから、占領行政と日本官僚との接点という立場から見てみると、なおのこと22年暮れごろというのは転換点だという気がしますね。
23年1月以降の陸軍長官のロイヤル演説と極東委員長のマッコイ演説が転機ですが、あのころからはもうお互いの言うことがひじょうにわかりやすくなってきたんじゃないですか。たまたま日本側でも、片山(哲)内閣が倒れてね、芦田(均)内閣に移ったときですよね。
それで思い出したんですが、アメリカから帰ってくるときの船のなかで、野村(吉三郎)大使とじっくり話したことがあるんですよ。そのとき野村さんが、ルーズヴェルトに最後に会ったときこう言ったというんですが、それを不思議そうに言うんですよ。“In the first world war we fought side by side . In this war we are fighting against each other. But in ten years it is most likely that we shall be fighting again side by side. ” 第一次世界大戦でわたしたちは肩を並べて戦った。こんどの戦争ではわたしたちはお互いに対して戦っている。しかしわたしたちは、肩を並べて戦うときが10年もたてばまた来そうだ。野村さんはね、これはいったいどういうことだろうというわけですね。
そのときぼくははっきり言わなかったんですが、アメリカとしてはやはり日米戦争が決まったときに、日本は負かしてやるんだ、そしてソ連を相手に戦わねばならぬときが来たら、日本はアメリカ側についてくれるという考えを根本的にもっていたのだと思います。
鶴見:そうでなければあんなゆるやかな占領というのは考えにくいでしょうね。日本が外地でやった占領にくらべて、実にゆるいですね。
都留:占領の初期にはかなりちぐはぐだったけれども、経済面ではかなりきびしかった。たとえば、最初の賠償視察に来たポーレーというのはひじょうにきびしい報告書を書いていました。じわりじわりと本来の彼らがもっておった基本線のほうへ行ったという感じだな。
鶴見:すると、日米戦争開戦のときの大きな布石をいま実現したということでしょうね、アメリカ側から言えば。
(初出 1967年11月『思想の科学』)
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鶴見俊輔 悼詞(とうし)
http://www.groupsure.net/post_item.php?type=books&page=tsurumi_toushi