「ソビエトの石川(淳)さん」(江川卓)
古書店で、筑摩書房刊「現代文学大系」の最終巻「月報合本」を入手した。
作家の素顔が見えてオモシロイ。そのなかで石川淳について江川卓が記したものを以下に引用してみる。
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「石川淳とソビエト!取り合せの妙かも知らんが、いささか食い合わせの気味もあるなァ」
石川さん、安部公房、木村浩、それに私の四人が、ソ連作家同盟の招きで訪ソするときまった一昨年秋、東京の友人たちは、こう言って心配してくれたものだ。とりわけ、酒興きわまるところ、じかに石川さんから有名な「バカヤロー」の一喝、二喝、三喝をくらった連中の話は、正直いって、ちょっぴり私の不安をさそった。
江戸文人肌の作家石川淳の目からすれば、ソ連作家の大多数、とりわけ作家同盟あたりにうろちょろしている連中が、文学に寄食する「小役人」と映るは必定。公式の席ではともかく、あちらにはウォッカ、コニャックという伏兵もあることであり、いつ、酔うほどに石川さん得意の「へっぽこ三文文士」、はては「バカヤロー」の連発が始まらぬでもない。その折はなんと通訳して座をもったものか。石川さん名づけるところの「江川少年」はこっそり胸を痛めた。
だが、案ずるより何とやら・・・「バカヤロー」の大盤振舞いは、ソ連滞在中、あとにも先にもモスクワ到着の当夜だけだった。それも、からみの相手はれっきとした日本人作家の堀田善衛。石川さんの愛すべく恐るべき酒癖はついにソ連文壇には知られずに終わった。
ソビエトの石川さんを思うとき、まず私の目に浮かんでくるのは、淡いセピアの表紙の中判ノートである。石川さんは、すでに船内のバー、食堂から、どこへ行くにもこのノートを手放さなかった。実は私も、同じ表紙のノートを持参していた。ところが、私のほうがいくぶん版が小さく、背広のポケットにもなんとかおさまるポータブルなものであったのに、実際に私のノートが持ち運ばれる回数は、石川さんのノートの回数をはるかに下まわった。
レストランに入る。石川さんお気に入りのグルジア産白ぶどう酒ツイナンダーリの乾杯がはじまる。われわれは前菜をつつき出す。と、早くも石川さんの膝の上には、例の中版ノートが開かれている。「きょう行った教会はなんと言いました? ザゴルスク? ははん・・・ザ・ゴ・ル・ス・ク」・・・「前菜、オードブルのことは、ロシア語でなんと言います? ザ・ク・ス・カ? ふむ」・・・「さっき話した文学のわからぬ男の名はなんと言いました?」・・・
こんな調子で、私たちが公式行事の息ぬきをやっているほんの数分の間にも、石川さんのノートは見るまに美しい筆蹟で埋まって行く。ホテルに帰れば、どんなに疲れたときでも、このノートの整理が終わるまでは休もうとされない。しかも驚嘆させられたのは、ノートを取るという根気のいる仕事が、旅行の最後まで、みごとなばかり一貫したペースでつづいたことだ。それも尋常のメモ、走り書ではない。ノートする段階から、すでに石川さんは言葉をえらび、数分前のなまなましい印象をなまなましく定着できる文を作っておられたようだ。「きっとあのままで本になるぜ」と私たちはささやきあっていたが、案の定、石川さんの珍重すべきソビエト紀行『西遊日録』の「展望」連載がはじまったのは、帰朝後まもなくのことだった。ポータブルな小判のノートでなんとか石川さんと張合おうとして、ついに三日坊主に終わった私は、真の作家たることのきびしさを教えられる思いだった。
予想されたことではあったが、ソビエトの作家のなかには、やはり石川さんとほんとうに張合える相手はなく、ソ連作家をまじえた席となると、石川さんがおのずと沈黙がちになるのが、やはりさびしかった。唯一の例外は、モスクワを発つ前日、ペレデルキノの別荘にレオーノフを訪れたときである。石川さん自身も、この訪問については快い印象を書いておられるが、この日ばかりは、久しぶりに談論風発の趣があった。といっても、口数は多くない。ただその雰囲気が、いかにも文人と文人の清談を思わせ、何気ない言葉の端に深い内容が思われて、ゆたかな気持にさせられたのだった。文学を通しての相互理解とはこういうことを言うのだろう。
レオーノフのような作家がソビエトにもう何人かいたならば、石川淳の訪ソが、食い合わせではなく、取り合わせの妙を連想させるようにもなるであろうに、とは、私たちソビエト文学を業とするもののいくぶんか心さみしい感想である。(ロシア文学者)
(現代文学大系 第50巻 月報40 昭和41年6月)
作家の素顔が見えてオモシロイ。そのなかで石川淳について江川卓が記したものを以下に引用してみる。
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「石川淳とソビエト!取り合せの妙かも知らんが、いささか食い合わせの気味もあるなァ」
石川さん、安部公房、木村浩、それに私の四人が、ソ連作家同盟の招きで訪ソするときまった一昨年秋、東京の友人たちは、こう言って心配してくれたものだ。とりわけ、酒興きわまるところ、じかに石川さんから有名な「バカヤロー」の一喝、二喝、三喝をくらった連中の話は、正直いって、ちょっぴり私の不安をさそった。
江戸文人肌の作家石川淳の目からすれば、ソ連作家の大多数、とりわけ作家同盟あたりにうろちょろしている連中が、文学に寄食する「小役人」と映るは必定。公式の席ではともかく、あちらにはウォッカ、コニャックという伏兵もあることであり、いつ、酔うほどに石川さん得意の「へっぽこ三文文士」、はては「バカヤロー」の連発が始まらぬでもない。その折はなんと通訳して座をもったものか。石川さん名づけるところの「江川少年」はこっそり胸を痛めた。
だが、案ずるより何とやら・・・「バカヤロー」の大盤振舞いは、ソ連滞在中、あとにも先にもモスクワ到着の当夜だけだった。それも、からみの相手はれっきとした日本人作家の堀田善衛。石川さんの愛すべく恐るべき酒癖はついにソ連文壇には知られずに終わった。
ソビエトの石川さんを思うとき、まず私の目に浮かんでくるのは、淡いセピアの表紙の中判ノートである。石川さんは、すでに船内のバー、食堂から、どこへ行くにもこのノートを手放さなかった。実は私も、同じ表紙のノートを持参していた。ところが、私のほうがいくぶん版が小さく、背広のポケットにもなんとかおさまるポータブルなものであったのに、実際に私のノートが持ち運ばれる回数は、石川さんのノートの回数をはるかに下まわった。
レストランに入る。石川さんお気に入りのグルジア産白ぶどう酒ツイナンダーリの乾杯がはじまる。われわれは前菜をつつき出す。と、早くも石川さんの膝の上には、例の中版ノートが開かれている。「きょう行った教会はなんと言いました? ザゴルスク? ははん・・・ザ・ゴ・ル・ス・ク」・・・「前菜、オードブルのことは、ロシア語でなんと言います? ザ・ク・ス・カ? ふむ」・・・「さっき話した文学のわからぬ男の名はなんと言いました?」・・・
こんな調子で、私たちが公式行事の息ぬきをやっているほんの数分の間にも、石川さんのノートは見るまに美しい筆蹟で埋まって行く。ホテルに帰れば、どんなに疲れたときでも、このノートの整理が終わるまでは休もうとされない。しかも驚嘆させられたのは、ノートを取るという根気のいる仕事が、旅行の最後まで、みごとなばかり一貫したペースでつづいたことだ。それも尋常のメモ、走り書ではない。ノートする段階から、すでに石川さんは言葉をえらび、数分前のなまなましい印象をなまなましく定着できる文を作っておられたようだ。「きっとあのままで本になるぜ」と私たちはささやきあっていたが、案の定、石川さんの珍重すべきソビエト紀行『西遊日録』の「展望」連載がはじまったのは、帰朝後まもなくのことだった。ポータブルな小判のノートでなんとか石川さんと張合おうとして、ついに三日坊主に終わった私は、真の作家たることのきびしさを教えられる思いだった。
予想されたことではあったが、ソビエトの作家のなかには、やはり石川さんとほんとうに張合える相手はなく、ソ連作家をまじえた席となると、石川さんがおのずと沈黙がちになるのが、やはりさびしかった。唯一の例外は、モスクワを発つ前日、ペレデルキノの別荘にレオーノフを訪れたときである。石川さん自身も、この訪問については快い印象を書いておられるが、この日ばかりは、久しぶりに談論風発の趣があった。といっても、口数は多くない。ただその雰囲気が、いかにも文人と文人の清談を思わせ、何気ない言葉の端に深い内容が思われて、ゆたかな気持にさせられたのだった。文学を通しての相互理解とはこういうことを言うのだろう。
レオーノフのような作家がソビエトにもう何人かいたならば、石川淳の訪ソが、食い合わせではなく、取り合わせの妙を連想させるようにもなるであろうに、とは、私たちソビエト文学を業とするもののいくぶんか心さみしい感想である。(ロシア文学者)
(現代文学大系 第50巻 月報40 昭和41年6月)
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