5:『オランダ紀行』(「鰊学校」・「慈愛号」)
*「鰊学校」では、
「17世紀以前、オランダを飛躍させた」ある発明とその後の展開が記されてある。
「ガリア戦記」が引き合いに出され、オランダ人が「紀元前から、主食であるかのように魚を食べ」、「好んで魚を食べ」てきたことへの記述から、章ははじまる。
魚は、もっぱらニシン。ニシンは北海でたくさんとれる。
14世紀末、オランダ人は、他国に先立ち、保存方法を考案した。「エラを切りとり、内蔵をぬきとり、塩を加え、空気から遮断して缶に」詰めた。「今となればなんでもない方法が、ヨーロッパ経済を震撼(?)させた」。
「それまでのオランダ人は、クルミ殻のような舟でニシンを獲っては、北海沿岸の国々に売っていたが、途中、腐ることが難で、交易量も交易範囲も知れたものだった」が、保存方法の発明「によって、ニシンを獲っては船上保存し、遠くバルト海あたりまで売りに行った。
ニシンは無尽蔵に近く、このしごとに従事する人口が増えた。オランダ人が、航海と操船において民族の特技のように上達するようになるのは、ニシンのおかげ・・」
「やがて船載する商品はニシンだけでなく、バターやチーズ、果実などものせてゆくようになったし、ライデン市の毛織物工業がさかんいなると、それも積んだ。/ゆくさきも、ひろがった。地中海まで足をのばし、やがてアジアの海に進出し、ついには日本にまで来ることになるのである。/15,6世紀、かれらはまさにニシン学校の生徒だったといっていい。」
*「慈愛(デ・リーフデ)号」
これは、1600年、英国人ウィリアム・アダムズ:三浦按針とオランダ人ヤン・ヨーステンを乗せて日本に漂着したオランダ商船名。
この章は、史上初の世界企業「東インド会社(VOC)」(1602年)成立の経緯について記されてある。
日本人にはその切実感がわからないが、当時のヨーロッパの人々は、香辛料(特に、胡椒)に惹きつけられた。
「肉のくさみをまぎらわせ、腐るのを防ぎ、さらには食欲をおこさせる」魔法の食材をもとめて、彼らは、インドネシアを中心とした「東インド」地域にやってくる。
胡椒貿易は、中世ではアラビア商人の手ににぎられ、15世紀の大航海時代がはじまると、スペイン・ポルトガルが活躍したが、17世紀前後、ビジネスを重んじる国オランダがアジアの海に登場し、胡椒をおさえ、巨利を得るにいたる。
しかし、常に大儲けできるわけではない。積荷が船もろとも沈めば、投下した資本はもどらない。それで、リスクを分散させるために、考え出されて成立したのが、株式会社という独創的なかたち。
「慈愛号」は、他の4隻とともに、東洋を目指したが、僚船は遭難。慈愛号も、日本に着いたとき、「かつて110人もいた乗組員で生きのこった者は24人にすぎず、生者のなかで立って歩ける者は6人にすぎなかった」。
ウィリアム・アダムズとオランダ人ヤン・ヨーステンは、家康と対面する。ヨーステンは、日本武士となると同時に、発足したばかりのオランダ東インド会社の日本駐在員にもなる。家康はそれを許す。彼は、家康からもらった朱印状をもって1623年、コーチ支那へ行き、日本への帰途、遭難して死ぬ。
「ともかくも、『デ・リーフデ号』の奇蹟の漂着によって、オランダ東インド会社は、発足早々に日本を市場として入れることができた。この船の日本史上での重要さは、あらためていうまでもない。」
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