SSブログ

『放浪・廻遊民と日本の近代』 長野 浩典著  弦書房 [民俗学]


放浪・廻遊民と日本の近代

放浪・廻遊民と日本の近代

  • 作者: 長野 浩典
  • 出版社/メーカー: 弦書房
  • 発売日: 2016/12/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



(まだ読了しておりませんが・・)

執筆の底流に流れるのは《民衆の側から「近代を問う」ということ》と著者はいう。これまで弦書房から数冊著者を刊行している。弦書房は、九州福岡の出版社である。

弦書房から出ている著作を過去に一度読んだ。靖国神社の創建にまつわる歴史に関するものだ。緻密な調査にもとづく充実したもので、世間一般の思い込みを覆すだけの内容に思う。しかし、どれほどそのことが認知されているだろうと思う。なにしろ、明治維新時の「錦の御旗」が長州藩の創作(つまり端的にいえば、偽造)であるという話も含まれていた。

本書の著者は現在、大分で高校教諭をしておられるという。一地方出版社の、地方に住まいする一教諭の著作ではあるが、本書も、たいへん読み応えのある内容に思う。


靖国誕生 《幕末動乱から生まれた招魂社 》

靖国誕生 《幕末動乱から生まれた招魂社 》

  • 作者: 堀 雅昭
  • 出版社/メーカー: 弦書房
  • 発売日: 2014/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



日本の「アジール」を訪ねて: 漂泊民の居場所

日本の「アジール」を訪ねて: 漂泊民の居場所

  • 作者: 筒井 功
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2016/10/24
  • メディア: 単行本



トラックバック(0) 
共通テーマ:

山県有朋、江藤新平、西郷隆盛のこと(室井康成著『首塚・胴塚・千人塚』から) [民俗学]


首塚・胴塚・千人塚 日本人は敗者とどう向きあってきたのか

首塚・胴塚・千人塚 日本人は敗者とどう向きあってきたのか

  • 作者: 室井 康成
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2015/11/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



当方、山県有朋が好きではナイ。貧乏から、時勢にまかせて成り上がった一官僚が、爵位を得るは、カネを集めるは、庭園を造るは・・・、いやらしいこときわまりないと、山県について思ってきた。600石取りの家から、100俵二人扶持の山岡家に養子に入り、貧乏を平然と生きた山岡鉄舟とはきわめて対照的である。山岡への敬愛の念が深まれば深まるほど、「山県はどうも・・・」という気分になる。しかし、好き嫌いは感情であるので、その実体について、よく知る必要があると思ってもいるのではあるが・・・、以下、上記書籍中、山県有朋、江藤新平、西郷隆盛のからむところ

********

こうして江藤の知力と西郷の腕力を得た大久保は、明治4年7月14日に「廃藩置県」を断行すると、それから間もない11月12日、岩倉具視・木戸孝允・伊藤博文らとともに欧米視察の旅に出発した(岩倉遣欧使節団)。留守を預かるのは西郷・・江藤、それに大隈重信・井上馨・山県有朋・板垣退助らである。彼らが主導する「留守政府」のもと、地租改正・賎民廃止令(解放令)・徴兵令・学制といった近代国家の骨格をなす諸制度が次々と施行されていった。しかのみならず、日本初の鉄道が新橋・横浜間に開通したのも、この間の出来事である。なかんずく学校制度は、調査開始からわずか8カ月で実現に漕ぎ着けたが、それは文部大輔の職にあった江藤新平の力によるところが大きかった[井上 2006 198頁]。p229

その後、明治5年(1872)4月25日、江藤は初代の司法卿に任ぜられた。法制分野は江藤の得意中の得意である。就任から1ヶ月あまりが経過した5月27日には、早くも東京に司法省裁判所を設置した。その辣腕ぶりは政府高官をめぐる汚職事件の捜査でも容赦なく発揮され、たとえば陸軍大輔・山県有朋の身辺で噴出した公金不正支出疑惑に手入れを行ない、進退窮まった山県は兼任していた近衛都督を辞職した(山城屋和助事件)。正当な職務遂行であったとはいえ、この一件により、江藤は山県の出身母体である長州藩閥から逆恨みを受けることになる。

山城屋事(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E5%B1%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

山県をめぐる一連の事件は、政府内の権力関係にも少なからぬ影響を及ぼした。山県は西郷のとりなしにより、陸軍大輔の職には止まることができ、かろうじて政治生命を維持することができたが、辞職した近衛都督の後任には西郷自身が陸軍元帥(後に大将)となったうえで就任した。最初は文官として新政府入りした西郷であったが、このとき、武官に移ったのである[毛利 1977 170頁]

明けて明治6年(1873)4月19日、江藤は参議に任ぜられ、司法卿を離任した。これにより、彼は職制上、西郷隆盛・板垣退助らと肩を並べたことになる。だが、それから5ヶ月あまりが過ぎた頃、いわゆる「明治六年政変(征韓論政変)」が起き、江藤は台閣を降りて佐賀へと帰郷することになる。p230

中略

すでに岩倉の言動から、自身の朝鮮派遣が無理であると悟っていた西郷は、天皇の裁定が下る前日の10月23日、機先を制してすべての官職の辞表を提出した。この処置に困った岩倉は、大久保の助言を得て、西郷の参議および近衛都督の辞任のみを許可し、陸軍大将の地位はそのままとした。

他方、江藤は西郷が辞任を表明した翌日、板垣退助・後藤象次郎・副島種臣とともに参議の辞表を提出し、11日後の10月25日に受理された。この政変における江藤の立場はといえば、西郷の主張を支持するもので、さらに西郷の朝鮮派遣にともなう軍事方針まで意見具申した形跡がある[田村 1991 84頁]。したがって、江藤の辞職は西郷に連袂したものとみて大過ない。加えて、近代的な司法制度の確立を自らの至上命題に掲げる江藤にとっては、閣議による議決という正式な手続きを二度にわたって経ておきながら、これを一部の高官が権謀術数を用いて覆すという、いわば不法行為が大手を振って罷り通っているという現状に対し、我慢がならなかったのであろう。p233

このあと江藤新平「梟首」の事情
列をなす墓参者
最後の内乱
西南戦争

と、見出しがつづき、西郷隆盛の首と、あいなる。

(政府軍最高司令官)山県のもとに届けられた西郷の首は、胴体とともに政府軍の本営が置かれていた浄光妙寺の庭に横たえられ、首は遺体から90度左に向けて立てられたという[大野2014 80頁]。この扱いは事実上の「梟首」であり、想像するだにおぞましい光景であるが、これは山県のみならず、西郷の従兄弟にあたる大山巌少将をはじめ他の政府軍幹部も目の当たりにしている。その後、西郷の首と胴はそのまま浄光妙寺の敷地内に仮埋葬されたが、二年後に同寺内の別の場所に移葬され、他の西郷軍将兵の亡骸とともに新たな墓域が形成された。それが現在、鹿児島県指定史跡となっている南洲墓地である。

以上のように、西郷の首級は、彼を直接見知っている複数の人物によって確認されているため、その発見から埋葬までの経緯は、史実としては動かしようがないほどの高い信憑性をたたえている。だが前述したように、西郷の最期の様子については少しく異説も語られてきた。p247

庶民の願望と西郷どん
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2008-12-10-2
山県有朋と明治天皇 (堀雅昭著『靖国誕生』から)
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-09-14
山県有朋 保安条例 教育勅語(堀雅昭著『靖国誕生』から)
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-09-14-1


おれの師匠―山岡鐵舟先生正伝

おれの師匠―山岡鐵舟先生正伝

  • 作者: 小倉鐵樹
  • 出版社/メーカー: 島津書房
  • 発売日: 2007/08
  • メディア: 単行本


靖国誕生 《幕末動乱から生まれた招魂社 》

靖国誕生 《幕末動乱から生まれた招魂社 》

  • 作者: 堀 雅昭
  • 出版社/メーカー: 弦書房
  • 発売日: 2014/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



トラックバック(0) 
共通テーマ: