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マンガの「超」リアリズム 紙屋 高雪著 花伝社 [マンガ学]


マンガの「超」リアリズム

マンガの「超」リアリズム

  • 作者: 紙屋 高雪
  • 出版社/メーカー: 花伝社
  • 発売日: 2018/04/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


「絵本はいいのに、マンガはだめ」???

著者:紙屋 高雪(かみやこうせつ)の本は2度目である。以前、著者の「町内会」に関する本を読んだ。誰もが内心うすうす(あるいはたいへん自覚的に)ヘン(変)に感じてはいるものの、「長いものには巻かれろ」的に受け入れている「町内会」というコミュニティーの(特に、強制加入を当然とするかのような、その)あり方に疑問を表明し論じているのをたいへん好意的に受け止めた。その論議も妥当と感じた。本書を読み始めて少しして、「アレッ、この人物はもしかして・・」と思い、『どこまでやるか、町内会(ポプラ新書)』を確かめたら、同一著者であった。

本書もある意味、「町内会」の本と似ている。中身が似ているというのではなく、モンダイの着眼点とその論じ方においてだ。誰もが生活する中で、当然であるかのように受け入れ(させられ)ているモノの見方に、疑義を呈して、著者なりの公正な見方を示していくその方法においてである。本書で著者は「ヤンキーマンガ」「エロマンガ」「戦争マンガ」など、世間で良識あるとされる人々から排斥されている(少なくとも、公共図書館では配架されない)マンガを、すべて擁護するというわけではないが、ヤミクモに排斥するのはいかがなものかという態度を示す。そして、その論議の道筋は決してハズレテはいない。

著者『まえがき』によれば・・ 「絵本はいいのに、マンガはだめ」という見方が教育現場にはある。そのようなマンガを取り巻く環境にあって、本書で伝えたかったのは〈①マンガがワクワクするような正義や理想を描くこともある〉という事実を知って欲しい〈②マンガのリアルさと、「正しさ」が対立するとき〉どう向き合えばいいのか 〈③なぜエロマンガが「楽しい」のか考える〉そのスリリングな試みを見て欲しい という3点。その点でさらに、〈マンガの研究書や専門的な批評では、こうした問題はたくさんの蓄積がありますが、一般の人には馴染みがないものでしょう。本書がその橋渡し、入り口になればいいなという思いも込めました〉と記されている。

〈本書は民主教育研究所「人間と教育」誌での2012年から2017年までの連載「マンガばっかり読んでちゃいけません!」をまとめ、加筆、補正したもの」。さらに、『ユリイカ 詩と批評』、『星灯』に掲載したもの だそうである。

評者はマンガをほとんど読まないし、読んでもこなかった。本書をとおして「いまのマンガはこんなふうになってるんだ」と知ることができた。ある意味、活字による書籍・雑誌以上に、現在・現代の生活と密着した、いわば地続きのたいへんリアルな世界を描いているのだと感じてもいる。本書は、マンガを論じてたいへんオモシロイ。マンガにこれまで縁のなかった方ほど、得るものは大きいように思う。

2019年1月30日にレビュー

(118)どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書)

(118)どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書)

  • 作者: 紙屋 高雪
  • 出版社/メーカー: ポプラ社
  • 発売日: 2017/02/09
  • メディア: 単行本


(以下、〈15 「鶴身俊輔は『サザエさん』をどう論じたか〉からの抜粋)

道路と家庭がそのままつながっており、家庭を「自分の持ち場」(122頁)するサザエさんは、生活の感覚で政治と社会を論じていた、ということである。「サザエさんにとっては、この立場からはなれて、『資本主義の矛盾』とか、『ヴェトナム反戦』とか言っている学生や、学生気分の抜けない若いサラリーマンはおかしいものに見える」(122~123頁)という。

生々しい生活の感覚と、社会を論じる時の大仰さの乖離。そこをどう埋めるか、ということは政治にたずさわろうとする者なら一度は悩む問題である。いや、「一度」どころか、それはぼくのある意味で終生にわたるテーマの一つである。別の言い方をすれば、「あなたは資本主義の矛盾という問題をすぐとなりの友人に通じる言葉で、どんなふうに話すのか」という問題である。

『サザエさん』は少なくとも戦後すぐの時期、それが一体となっていた、と鶴見は主張しているのだ。「社会性がない」どころか、社会を論じるその立脚点が決して宙に浮いたようなそらぞらしいものではなく、しっかりと家庭という形で地についていたわけである。

しかし、『サザエさん』もやがてその生き生きした一体性を失っていく。(後略)

家庭の持ち場を離れずに社会を論じるという手法が、うまく機能しなくなってきた。家庭で生活を送る。そのことを描写するだけでは、もはや社会性を描けなくなってしまったのである。もしそうだとすれば、これはぼくの推論であるが、『サザエさん』は社会性を失ったばかりでなく、生活の描写としてもヴィヴィッドさを失ってしまた。それがアニメ『サザエさん』である。アニメ『サザエさん』は、マンガ作品の中から特に社会性のないものを抽出し、さらに独自のエピソードを加えて社会性と今日的な生活感を徹底的に剥奪してしまった。時代を超えた普遍性、といえば聞こえはいいけども、いわばホルマリン漬けのような奇妙さがそこにはある。

・・略・・

では、活き活きとした生活感、生々しい生活の笑いはどこに引き継がれたのだろうか。

その答えのひとつは、コミックエッセイの流れであるとぼくは考える。・・略・・
(p132~135)

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(以下は〈17 『さびしすぐてレズ風俗に行きましたレポ』は「道徳教材」たるか〉からの抜粋)

この本を「道徳」の教材として使ってみてはどうか。あらかじめ「良い」ことが書かれている予定調和の教材、それを「良い」としか言えない脅迫にされされた教材としてではなく、「生きづらさ」という切実を赤裸々に書き、しかもそれが現実には性的搾取を含んだ複雑怪奇な事象を扱い、さらにはそれが人を救う効果を持っている。それが本書だ。

教育学者・佐貫浩は「多くの文学作品が、道徳教材として短く切り取られて、その中に学ぶべき教訓や徳目があるものとして提示され、それを発見することが授業の課題とされる」ために、「道徳教育は、見え透いた『建前』をいい当てるゲーム」と化す、と批判した。

佐貫は、「道徳性の教育にとって、何よりも重要なことは、道徳性が問われているその場面に関わって指導し子どもに考えさせ、討論させ、子ども自身の行動や考えを組み替え成長させることである」「トラブルや困難・・・等々をその場で取り上げ、解決していくことと直接結びついてこそ、道徳性の教育は強力な教育力、指導力を持つことができる」とする。

ゆえに「道徳性とは、何が自分の取るべき態度(正義)であるのかを、他者との根源的共同性の実現・・・共に生きるということ・・・という土台の上で反省的に吟味し続ける力量であるということができる」。

佐貫は教材を使えとは言っていないが、もし「道徳」の教材を作るなら、本書のように子どもにとって切実なテーマを扱うべきである。そして、善悪が複雑なものを積極的に選ぶべきである。その方が現実の複雑さに近いからである。(p152,152)


道徳性の教育をどう進めるか 道徳の「教科化」批判

道徳性の教育をどう進めるか 道徳の「教科化」批判

  • 作者: 佐貫浩
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 2015/06/20
  • メディア: 単行本



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