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『ノンフィクション児童文学の力』 国松 俊英著 文溪堂 [児童文学]


ノンフィクション児童文学の力

ノンフィクション児童文学の力

  • 作者: 国松 俊英
  • 出版社/メーカー: 文溪堂
  • 発売日: 2018/01/17
  • メディア: 単行本


実作者からの貴重なプレゼント

「ノンフィクション児童文学には、激動の時代をしっかりとらえる力がある。たくましく生きる人間の姿を生き生きと描き出す力がある。ノンフィクション児童文学は、ほんとうのことを知りたいと思い、多くの知識を求めようとする子どもたちに、社会や人間の本質を伝える力を持つ文学である。児童文学に関心を持つたくさんの人たちにそのことを知ってほしいと思って、この本を書いた。」と序文は始まる。そして、(1980年代後半から)〈三十年、ノンフィクションとともにやってきた。その中でとても残念に思っているのは、「ノンフィクションはおもしろい」、「ノンフィクションが大好き」という人が、なかなか増えないことである。絵本やファンタジーを深く愛する人に比べ、残念ながらノンフィクションが大好きな人はまだまだ少ないのだ。 / そんな状況を変えたい。ノンフィクション児童文学はおもしろいと思う人が増えてほしいと思って、この本を書くことにした。〉〈一人でも多くの人ノンフィクション児童文学に関心を持つてもらい、その力を知ってほしいと願っている。〉と序文は結ばれる。

1(章)では、「ノンフィクション児童文学とはどんな文学か」が示され、児童文学のなかでのその位置づけとそのそのジャンルにはどのようなものがあるかが示され、また、どのように「児童文学の世界で、市民権を得るようになった」か、その経緯が簡潔に示される。

2(章)は「ノンフィクション児童文学のあゆみーーノンフィクションの世界を切り開いた人たち」と題され、たかしよいち、石川光男、神戸淳吉、木暮正夫ら4人のパイオニアについて詳述される。

3(章)は、「読んでおきたいノンフィクション児童文学ーー1970年から1990年代までの作品」として、33作品の要約と抜粋が示される。(巻末付録「この本で紹介したブックリスト」には、100冊ほど紹介されている。この部分同様「読書案内」として役立つ)。

4(章)は「私のノンフィクションノート」と題され、題材の見つけ方、取材の仕方、ノンフィクション児童文学の可能性について記されていく。

と、まとめていくと、味も素っ気もない「論文」であるかのように誤解されそうだが、読み物としてたいへん面白い。著者の「熱」が伝わってくる。執筆のなかでの苦労やよろこびも実感できる。思わず引き込まれて、ふと我にもどり、「ああ、自分はいま子どもに戻っていた・・」とたびたび感じながら読んだ。ノンフィクション児童文学の「力」について知りたいと願う方、また、その執筆にあずかろうという方にとっては特に、実作者からの貴重なプレゼントといえる。


さいはての荒野へ―北海道開拓にかけた依田勉三と晩成社の人たち (PHPこころのノンフィクション 2)

さいはての荒野へ―北海道開拓にかけた依田勉三と晩成社の人たち (PHPこころのノンフィクション 2)

  • 作者: 木暮 正夫
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 1981/06
  • メディア: 単行本



北の大地に生きる―北海道開拓にかけた依田勉三と晩成社の人たち (PHPこころのノンフィクション 17)

北の大地に生きる―北海道開拓にかけた依田勉三と晩成社の人たち (PHPこころのノンフィクション 17)

  • 作者: 木暮 正夫
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 1982/12
  • メディア: 新書



児童文学概論

児童文学概論

  • 作者: 原 昌
  • 出版社/メーカー: 樹村房
  • 発売日: 1988/05
  • メディア: 単行本



(以下、上記書籍からの引用。『ノンフィクション児童文学の力』1(章)p20で紹介されている。)

小説・童話のような虚構(フィクション)ではなく、事実に基づいた記録性の強い文学をノンフィクションという。記録は個々の事実のありのままの客観的叙述である。そして個々の事実の因果関係を強いて必要としない。しかしほんの一行の記述ですら重大な意義をもちうるのである。

「1583年、ガリレイは教会のつり鐘のゆれるのをみて、ふりこの等時性を発見、1589年、ピサの斜塔を使って落体の法則を発見。」

この文章からはなんの感動も生じない。あまりにも客観的だからである。記録はすべての主観的要素を拒否する。その目的は読んで感動させるためではなく、事実そのものに価値がある。

しかし、ノンフィクションは記録ではない。事実に基づくが、主観的である。〈ジェンナーは自分の子どもに人体実験を行い、種痘法を発見〉という一行の記録から、個々の事実に基づいて、親としてのジェンナーの内面的苦悶を掘り起こすことができたならば、それはもはや記録から脱してノンフィクションとなる。

ノンフィクションは〈非・虚構〉の意味でありながら、すべての虚構を否定しているわけではない。虚構をすべて否定し去ることは、文学の本質を否定することになる。したがってノンフィクションは、むしろ事実を優先した概念である。現実法則をふまえ、事実の優先とそれに伴う最小限の虚構という形で作られたのがノンフィクションである。すなわちこの場合の〈虚構〉とは、全体像に沿った事実と事実との間に生ずる作家独自の解釈、推理、想像などを意味する。

ノンフィクションの作者は、事実の断片を貴重な素材源として、それらをあるまとまりある統合体に構成しようとする。記録の場合には、一つの事実は“個としての独立価値”を有するが、ノンフィクションの場合には、“個として”はほとんど価値がない。単に素材としての断片にすぎない。作者がそれらの素材を有機的に関係づけながら文学的形象化に成功してこそ、ノンフィクションとなる。また、ノンフィクションに接する読者の態度はフィクションの場合とやや異なって 〈事実あったことだ〉 という感情に支えられる。だからフィクション以上に迫真性を生む。そしてときには、〈事実は小説よりも奇なり〉という驚きをもって迎えられる。

しかし、ノンフィクションも小説と同じように、究極的には人間追究・生の追究に連なるものである。もはや作品全体としては、個の事実の特殊性から脱して普遍の域に移らねばならない。

ところで、児童を対象としたノンフィクションは、特に物語性を強く要求する。単なる平板な叙述では児童を誘うことはできない。児童の探究心・好奇心・知識欲求心に応ずるものでなければならない。--


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