*明治の光 内村鑑三』 新保 祐司著 藤原書店 [宗教]
浮かれることなく、腰を据えて考えるよい助け
オモシロイ本だ。序文以外は既出の論文である。ゆえに本書は論文集成である。往々にしてそのような書籍はつまらなかったりする。が、しかし、本書は例外である。予想を裏切られただけでなく、久しぶりに、背筋を伸ばされる思いをした。気骨ある明治のスピリットに触れて、しっかりしろと背を打たれる思いがした。
著者は内村鑑三を、日本近代の「根源的な批判者」と呼んでいる。明治維新と文明開化、それからどんどんと日が過ぎて今年は明治150年を記念する年となる。これまでの年月をキリスト者としての内村から見るならば、NO!ということになろう。そして逆に、この世から見るなら内村はNO!であった。実際、旧制第一高等学校時代、天皇を拝むことを拒否した(「一高不敬事件」)ために、内村は教職を奪われる。「国賊」呼ばわりされ、日本を彷徨するはめになる。キリストの精神を身をもって表明すると、世から憎まれる。これはキリスト者すべてが覚悟しなければならないことである。
しかし、そのようにして、世から追われた内村を受け入れた人々がいた。心から敬愛する人々がいた。「内村の精神の磁力は、次の世代の多くの日本人の精神を垂直に立たせたのである。」本書には、そのような「明治の光」としての内村と、その影響力、磁力に引き寄せられ「垂直に立たせ」られた多くが紹介される。その中には、思いがけない人もいる。その思いがけなさゆえにも本書はオモシロイ。
たとえば、富岡鉄斎の息子:謙蔵もその一人である。鉄斎は、東京を追われて京都にやってきた「国賊」内村に息子を預ける。英語の家庭教師としてである。後に、京都帝大に奉職したその息子は、生涯内村への敬意を保つ。著者は、その出会いを描き、内村と鉄斎との間にある共通項をあぶりだして見せる。他に、正宗白鳥、芥川龍之介、宮沢賢治、大佛次郎、小林秀雄、 山田風太郎らも名を連ねる。その記述からは、内村が日本にはないと言う「大文学」とは如何なるものかも照らし出される。
本書は、明治150年記念に浮かれることなく、来し方と将来を腰を据えて考えるよい助けとなるにちがいない。
2018年3月15日にレビュー