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『哲学がわかる 形而上学』スティーヴン・マンフォード著 岩波書店 [哲学]


哲学がわかる 形而上学 (A VERY SHORT INTRODUCTION)

哲学がわかる 形而上学 (A VERY SHORT INTRODUCTION)

  • 作者: スティーヴン・マンフォード
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2017/12/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


雲は雲なりにつかむことは可能だ

形而上学とは何か?と問われて、よく分かる仕方で答えるのは、むずかしい。そのむずかしいことを本書はほぼ成し遂げたと言っていいのではないか。(「ほぼ」とつけたのは、著者の力量に問題があるのではなく、評者の読解力ゆえに付加した言葉)。

本書では、入門書によくあるように、ずばり本題に入らない。形而上学とはこれこれをあつかう哲学だと解説を始めない。第10章(最終章)になってやっとタイトルに「形而上学とは何か」とでてくる。それは初学者が「形而上」の抽象的な雲をつかむような話に、辟易して逃げ出さないようにとの配慮にもとづくものだ。第1章から9章までで、読者は著者とともに形而上学を実践する。そのことで理解を得るよう助けられる。その課題は「机とはなにか」「円とはなにか」「全体は部分の総和にすぎないのか」「変化とはなにか」「原因とはなにか」「時間はどのように過ぎ去るのか」「人とはなにか」「可能性とはなにか」「無は存在するのか」というものだ。問いかけ同様、解説もやはり「雲をつかむ」ような話しではあるのだが、なんとか論議についていける。そして、「ははあ、こういうものをいうのか」と形而上学を“実感”できる。雲は雲なりにつかむことは可能だという思いを致す。そして、さんざん課題をああだこうだやったあと、最終章で「形而上学とはなにか」を教えられる。順番が逆だが、実感・体験してから教示されるとハラに入る。著者は、初学者の興味や落とし穴を知ったうえで導いてくれる。タトエも多く用いられる。ビリヤードの仲間のスヌーカー(の球)が引き合いに出されたりもする。ありがたいことである。

翻訳者のひとり秋葉 剛史氏による『解説」には、〈本書で紹介されているのは、主として20世紀以降の英語圏の哲学で行われてきた形而上学の議論ーー「現代形而上学」ないし「分析形而上学」と呼ばれるーーである〉とあり、第1章から章ごとの要約、そして本書の全体的な特徴を記した後、〈以上を総合するに、本書は現代形而上学への最初の一冊として、あるいはその全体像を比較的手軽に把握するための書として、幅広い層の読者にお勧めである〉とある。

2018年3月4日にレビュー

形而上学
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E5%AD%A6


形而上学〈上〉 (岩波文庫)

形而上学〈上〉 (岩波文庫)

  • 作者: アリストテレス
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1959/12/05
  • メディア: 文庫



現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

  • 作者: 倉田剛
  • 出版社/メーカー: 新曜社
  • 発売日: 2017/04/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


ひとは形而上学を、意味のない時間の浪費、あるいはより悪くは、人々の注意をそらす有害なものだと考えるかもしれない。ソクラテスはまさにそうした有害な輩であるということで死刑になったという(おそらくは半分だけ正しい)逸話を私たちは忘れてはならない。しかしすでに読者は、右のような単純な問いが、実際はかなり込み入った答えへと導きうることをみてきたはずである。円とはなにかという単純な問いから、私たちはすぐに、世界や実在、そして存在するものの本質的特性についての深遠な問題へと導かれた。これらの問題について頭を悩ませることは、私たちの知力や精神をトレーニングする助けになったかもしれない。実際、私たちはかなり一生懸命に考えなくてはならなかったし、精神の曲芸のようなことも行わなければならなかった。しかし、形而上学はこうしたトレーニング以上のなにかに役立つのだろうか。たしかに、私たちは形而上学について理解を得ることができたかもしれないが、ひょっとするとその理解を役立てられることがらはなにもないかもしれない。形而上学は無意味なのではないか、という疑いは依然として残るのだ。

ではこれまでの9つの章で、私たちはなにをしてきたのだろうか。一つの答えは、私たちは実在の根本的な特性を理解しようとしてきた、というものである。しかし私たちが関心を寄せてきたのは実在のある一つの側面だけであり、私たちが追求してきたのもある一つの種類の理解にすぎない。実在の特性を理解しようとするという点では科学も同じだが、科学はそれを形而上学とは異なる仕方で行う。科学はある種の一般的な真理を探し求めるが、それらの真理は具体的である。これに対して、形而上学の探し求める真理は一般的で抽象的なものだ。

どのようなものが存在するのかを考察するとき、哲学者は、もっとも一般性の高い仕方で答えようとする。つまり哲学者の答えは、さまざまな自然種に属する個別者、性質、変化、原因、法則、などが存在する、といったものである。しかし科学の仕事は、これらのカテゴリーのそれぞれについて、どのような特定の種類のものが存在するかを言うことだ。たとえば、電子、トラ、化学的元素といった個別者が存在する。スピン、電荷、質量などの性質が存在する。溶解などのプロセスが存在する。万有引力の法則などの自然法則が存在するーーこうした種類のことを言うのが科学の仕事である。

形而上学が目指すのは、科学が発見するこうした特定的な真理すべてを秩序づけ、体系化し、それらの一般的な特徴を記述することだ。形而上学について説明するなかで、私はなるべく多くの例を用いるよう心がけてきたけれど、それらの例の選択はいくらか恣意的だったことに読者は気がついただろう。円とはなにか、机とはなにか、と私は問うたが、その代わりに、赤とはなにか、分子とはなにかと問うのでもよかった。これらはいずれも、性質一般、個別者一般についての問題へと導くための手段にすぎなかったのである。

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以上、第10章「形而上学とはなにか」からの引用(161-162)。このあと、見出しとして「物理学と形而上学」「見ることは信じること?」「理論に関する美徳」「形而上学の価値」と続く。

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