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『内藤湖南: 近代人文学の原点』 高木 智見著 筑摩書房 [人文・思想]


内藤湖南: 近代人文学の原点 (単行本)

内藤湖南: 近代人文学の原点 (単行本)

  • 作者: 高木 智見
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2016/11/15
  • メディア: 単行本


かくある以上、やはり、読まずばなるまい

内藤湖南の名を冠した全集が出ていることは知っているが、その中身は知らずにきた。本書副題には「近代人文学の原点」とある。「原点」を無視するわけにはいかない。そして、本書の発行元は、全集と同じく筑摩書房である。さらに、本書は「湖南生誕150年記念刊行」とある。であれば、本書がいいかげんな本であろうはずがない。きっといい入門書となることであろうと手にした。目をとおしての印象は、「湖南礼賛」の気味があるものの、たいへん緻密に湖南の仕事とその方法が論じられている。しかし、「湖南礼賛」と感じるのは、湖南の全仕事に直接実際に触れていない評者の方に問題があるのだろう。

著者の問題意識は次のような点にある。《多面的な知的巨人・内藤湖南を内側から捉える試みとして、その学問と思想の核心部に位置する歴史学と儒家思想に着目し、特にその「面白さ」に焦点をあてて考察を進めていきたい。すなわち、湖南の文章はなぜ面白いのか、湖南はいかにしてそれらの文章を書いたのか、さらにはどうすれば湖南のように面白い歴史叙述が書けるのか、といった単純にして素朴な問題に解答を与えてみたいのである(序章「湖南の実像をあるがままに捉える」)》。

著者は、そのような問題意識のもと、湖南の著述の具体例を、日中関係論、東西文明関係論、文化論、個別研究、学問論のそれぞれについて見た後、概括して次のように述べる。《 湖南の著述は、中国史に関して学ぶに足る数多くの個別的見解を含んでいる。のみならず、中国とは何か、日本とは何か、両者の関係は如何にあるべきか、人間社会はどこへ進もうとしているのか。歴史を理解するとはいかなることか。経世の志と学問はどう関わるべきか。文化の大衆化とエリート主義のより良い関係とは如何にあるべきか、などなど、現代の我々が抱える多くの根本的な問題を明確につかみ取り、先駆的に鋭くまた深く考察している。それらは読み手の問題意識に応じて、教訓、指針、警告、叱責、激励など様々な意味を有する見解として受け取ることができる。だからこそ、今なお読み継がれているのであり、読み継がれねばならない・・(序章「今こそ内藤湖南」)》。

松岡正剛は、湖南の『日本文化史研究』を評するに先立ち「秋田に生まれ、山陽と松陰に学び、 東洋と日本を貫く方法を求めて、 支那学と日本文化史研究を研鑽しつづけた巨人。 富永仲基を発見して、加上の論理に着目し、 空海にも道教にも、書道にも香道にも、そして山水画の精髄にも通暁した目利きの巨人。平成混迷の、日中怪しき混雑の時、この「歴史と美の崇高」を見抜いた内藤湖南を、 諸君はなぜ読まないのか(『松岡正剛の千夜千冊』1245夜)」と記している。 かくある以上、やはり、読まずばなるまい。

2017年3月7日にレビュー

日本文化史研究
内藤湖南
講談社学術文庫 1976
(松岡正剛の千夜千冊)
http://1000ya.isis.ne.jp/1245.html


目次は、

序章 今こそ内藤湖南―湖南とは何者か
1今なぜ湖南か
2不朽の理由
3本書のねらいと各章の概要

第1章 中国学者・湖南の誕生―湖南はいかにして「湖南」になったのか
1早期湖南へのアプローチ
2『全集』に収録されなかった早期の論考
3未収録文における湖南の思想的原点
4沸々たる激情

第2章 孟子と湖南―早期湖南はなぜ激越だったのか
1過激で熱く純粋で汚れのない青年
2湖南の刺客論
3理想社会をいかに実現するか
4早期湖南の処世観と孟子
5なぜ孟子の思想なのかーー幕末維新と孟子

第3章 歴史認識とその背景―湖南はなぜ面白いのか
1湖南史学に関する3つの疑問
2湖南の面白さ
3湖南の歴史認識・ものの見方
4変化の思想の背景
5天命を甘受しつつも努力を惜しまぬ人

第4章 湖南史学の形成―面白い歴史はいかにして書かれたのか
1湖南史学を自己のものとする
2対象論
3史料論
4認識論
5表現論
6湖南史学の根本にあるものーー他者への共感と同情

第5章 湖南史学の核心・心知―テキストはいかに理解するのか
1「支那人に代わって支那の為めに考へる」再考
2湖南をどう読むか、湖南はどう読んだか
3いかにして心知するのか
4心知を基盤とする文化的共同体

第6章 湖南を以て湖南を読む―湖南執筆文をいかに鑑別するのか
1未完の全集ーー史料論的検討の必要性
2湖南執筆文の史料論的検討
3研究の深化が全集を完成させる

終章 湖南の面白さの意味―誠と恕の精神
1湖南の至誠が読者を動かす
2恕の精神と歴史の追体験
3誠・恕と現代社会
4理想の追求と不断の努力

あとがき 初出一覧 人名索引



日本文化史研究(上) (講談社学術文庫)

日本文化史研究(上) (講談社学術文庫)

  • 作者: 内藤 湖南
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1976/10/08
  • メディア: 文庫


富岡鉄斎の心知

ちなみに、湖南が「百年以来能く逸格を標する者ただ先生あり(この百年間で、絵画に対する最上級の評価である逸格を標榜することができるのは、ただ先生のみである)」(14巻212頁)と評した画家(書家)・富岡鉄斎の「心知」について、晩年の弟子である本田成之が次のような記述をしている。

《先生は固より心学者の系統を享け儒学仏学殊に陽明学を大いに体験した人で、其の絵をかくのは恰も経書を講ずると同じ心持ちで之れに依って人倫を扶植し名教を維持しようとせられた。・・・同時に又山海経や孔子、仏教や高僧伝にある奇跡的事実をも之れを架空な記事とは考へられなかった・・・つまり古来海中に蓬莱、方丈、瀛州の三神山があると伝へたのは此の山東省の海辺に現れる蜃気楼に外ならぬのである。鉄斎先生も夫れは知って居られたに違いないが夫れでも先生は矢張り夫が一実在の霊境と考へられたらしく蘇東坡が神明に祈ったら、ありありと蓬莱山が現れたと云う事を熱心に語られ、今でも世界の何処かに実在すると考へられていたらしい。其他、仏、菩薩を始め、日本の高僧やら偉人傑士の霊は今尚ほ厳然として存在していると考へられた。つまり先生は時間と空間とを全く超越して数千年に亘て嘗て存在した人物なり事件は先生の読書に依りて先生の意識に上った以上は夫れは決して死滅したのではなくして今尚ほ宇宙間に活動しつつある者と考へられたらしい。・・・先生の頭の中には数千年の無尽蔵の人物なり事件が夢寐の間に髣髴として往来し、夫が尽く浄化され、玲瓏として水中の月、鏡裡の花の如く時としては自分も其中に加わり、直接に古人と対話して其夢境たるを忘れると云ふような状態になることが屢あったらしい。そんな時には直ちに紙を展べ筆を執って其趣を描くのであった。先生に取っては古いとか新しいとか云ふような区別はなく只意識から消えてゆくのを惜しんだのである(本田成之『富岡鉄斎』23頁、中央美術)

富岡鉄斎はまた「千人萬人中、一人両人知」(同32頁)なる雅印を用いたと伝えられるが、この印文は、晩唐の画僧にして詩人・禅月大師・貫休の『禅月集』巻二の一句で、聖人の「遺風」を理解できる者は、千人万人中に一人か二人しかいないという意味である。おそらく書家湖南が言うところの「心知」とは、鉄斎のそれと同様に、極めて少数の卓越した実作者のみに実践可能なことであったと思われる。
(第5章 湖南史学の核心・心知ーーテキストはいかに理解するのか p302-3)
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