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新井紀子「夢のヒヨコ」を歌いながら(日本評論社『数学まなびはじめ 第3集』から)


数学まなびはじめ 第3集

数学まなびはじめ 第3集

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 日本評論社
  • 発売日: 2015/07/23
  • メディア: 単行本



以下、上記イメージ書籍中掲載、新井紀子教授〈「夢のヒヨコ」を歌いながら〉の
「阿部謹也先生と松坂和夫先生の講義」部分から抜粋

**********

私は線形代数、しかも1年生の線形代数を教えてみたいと思った。線形代数は、高校卒業までに学ぶ数学とは趣がかなり違う。解析を教えているときに、
「結局、連続ってなんですか?」
と学生に聞かれることはあまりない。(残念ながら、それは、学生が連続を正しく理解している、ということを意味しないようだが、)

しかし、線形代数を教えていると、学生に、
「結局、写像ってなんですか?」
「行列って、何のためにあるんですか?」
と繰り返し質問される。説明しても、なんだか要領を得ないような顔をする。行列に関する定義は複雑ではない。定理の証明も解析に比べるとやさしいだろう。練習問題も、例題で示された解法を習えば解ける。だが、意味がわからない。そう! 難しくないくせに、意味がわからないから腹が立つ。それが線形代数に出会った学生の気持ちではないかと思う。なぜ、そのようなことになるのだろうか。それは、線形代数が純粋に思考の産物であって、そこに「自然」や「実体」がないからかもしれない。ロジックをやっているので、実数も私には同じように実体のないものに見えるけれども、やはり大多数の人にとって、「あの実数」は厳然と存在するに違いない。学生も、一応、実数とは「あの数直線」のことだ、と信じている。しかし、「あの線形変換」や「あの行列式」の共通イメージなど、どこにもない。行列にも具体的な形はあるが、あれはただの記号列だろう。それが「解けるけれど、何をやっているのかわからない」というねじれた混乱を生むのではないかと思う。

この「ねじれた混乱」は、学生が抽象や構造ということを理解する上で、得がたい体験になると私は考えている。教える側が、「線形代数はとりあえず計算だけできればよい」とあきらめてしまっては、せっかくのよい教育の機会をみすみす逃すことになるだろう。高度な数学的テクニックを必要としない点も、教養教育の教材として線形代数を魅力的に思う理由のひとつである。つまり、線形代数を通して学生に学んでほしいこと、とは、実体(具体的な集合・写像・グラフ・ベクトル)から性質を引きはがし、性質を抽象として扱い、それをまた実体にもどす、という作業を自由にできるようになることである。高度な数学的テクニックを必要とすると、つい学生の注意も、教える側のエネルギーも、そこに集中してしまう。一橋大学で、これから私が教えようとしている相手は、社会科学の学生である。数学の個別の知識の有無が、彼等の将来に大きな影響を及ぼすわけではない。そういう彼らが大学で数学を学ぶ意義があるとするならば、それは数学の方法論を身に付けることだろうと思う。

例えば、社会科学の対象の中から
「AとBには、同じ性質がある」
「AとBには、同じ構造がある」
ということを発見し、それを論理的に説明する力を養うことだろう。社会科学の先駆的な研究の多くは、他の人には発見しえなかった構造や、構造間のアイソモルフィズムを発見するような研究である。岩井克人や柄谷行人、橋本治らの仕事は、そういう意味で、非常に数学的だと言える。ただし、私の講義を受講している学生たちは、社会科学が何であるかをまだ知らないのだから、講義の最初に、「いかに数学が社会科学に必要か」と説教したって、寝てしまうだけである。でも、本当は、彼らも何かを欲している。夢のヒヨコを飼いたいと思っている。なぜなら、何も体験せず、何も考えずに過ごすには、健康な18歳にとって人生は残酷なほどに長いからである。

中略

私自身が18歳だったときに出会った二つの講義のことを思い出してみる。ひとつは、阿部謹也先生の「ドイツ中世史」の講義である。数学と違って、歴史、特に世界史は大好きだった。クレオパトラとシーザーの恋、アレクサンダー大王の遠征、そうしてもたらされたヘレニズム文化、そんな歴史のロマンが好きだった。わくわくしながら最初の講義に出かけていったら、阿部先生は講義の冒頭でこんなことを言うのである。
「みなさんは、13世紀のドイツの人たちがどんなことを考え、何を基準に行動していたか。それを理解できると思いますか?」
何を聞かれているのか、質問の意図が飲み込めなかった。
「恋愛というのは、いつから日本で始まったと思いますか?」
というようなことも聞かれた。やはり何を聞かれているのか、わからなかった。まるで「足し算とは何のことですか?」と初めて聞かれた人のような顔を私はしていたと思う。みなさんは、みなさんの頭の中身のまま、自由に年表を旅して、歴史の登場人物に自分を重ね合わせてきたかもしれません。でも、そのような歴史など、実は存在しないのです、というようなことを阿部先生は言うのである。恋愛、個人、社会、自然、とそういうものが、どの時代にもどの文化にも普遍的にあると思ったら大間違い。そう言われて、非常に混乱した。まるで、立っている地面がなくなるかのような喪失感を覚えた。しかし、同時にそれは、私に大きな感動を与えた。今まで、自分をかんじがらめにしてきた、言葉とそのイメージから解放される、他では経験したことのない爽快感であった。問う、ということが、これほどに強い力を持つことを、私は初めて知ったのである。
p52-60


夢のヒヨコ

夢のヒヨコ

  • アーティスト: 矢野顕子,糸井重里,Jeff Bova,カラオケ
  • 出版社/メーカー: エピックレコードジャパン
  • 発売日: 1994/07/01
  • メディア: CD



自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫)

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  • 作者: 阿部 謹也
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  • メディア: 文庫



生き抜くための数学入門 (よりみちパン!セ)

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  • 作者: 新井 紀子
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  • 発売日: 2011/07/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



数学は言葉―math stories

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  • 作者: 新井 紀子
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  • 発売日: 2009/09/07
  • メディア: 単行本



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