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抜粋 『 H・P・ラヴクラフト:世界と人生に抗って』 ミシェル・ウエルベック著  [エッセイ]


H・P・ラヴクラフト:世界と人生に抗って

H・P・ラヴクラフト:世界と人生に抗って

  • 作者: ミシェル・ウエルベック
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2017/11/24
  • メディア: 単行本



ラヴクラフトの“成熟した”達成の数々は、これまでミシェル・ウエルベックがなしたように正当な評価を与えられたことは一度もなかった、ということである。あなたがすでにラヴクラフトの全作品を読んでいるなら、『世界と人生に抗って」はラヴクラフトその人に立ち戻るように促し、彼をあらたな光の下で見させるだろうし、あなたがプロヴィデンスの「暗き王子」に初めて行き合うのであれば、これ以上に高揚させる刺激的な道を開いてくれるものはないだろう。24(スティーヴン・キング「ラヴクラフトの枕」)


怪奇幻想作家(そのなかでももっとも偉大な作家のひとり)である彼は、人種主義を容赦なくその本質的な源泉、そのもっとも深い源泉に連れ戻す。それはすなわち“恐怖”である。彼の人生は、まさにその実例となっている。みずからのアングロサクソン出自の優越性を確信する地方のジェントルマンとしての彼は、ほかの人種に対しては、ある種の距離を置いた軽蔑しか感じていなかった。だが、ニューヨークの下層区域に滞在したことが、すべてを変えることになる。あの異質な連中は、“競争相手”に、隣人に、そして、恐らく暴力の場では優位に立つ敵になるのだ。まさにそのとき、マゾヒズムと恐怖からなる錯乱が昂じるなかで、殺戮への呼びかけがやってくるのである。32

(ラヴクラフトの文体)彼の文章は、実際ただただ誇張や錯乱のなかで展開する、というわけではない。そこには時に、極めて稀有なある種の鋭敏さ、明晰な深さといったものがある。そこには次のような段落が見いだされるー「省略」-わたしたちが立ち会っているのは、感覚的認識の極度の鋭敏さが、いまにも世界の哲学的認識への反転を引き起こそうかという瞬間である。言い換えれば、わたしたちは詩の只中にいるのである。34「序」


「ラヴクラフトの真価を認めるためには、おそらく幾多の辛酸を嘗めていなければならない・・・」ジャック・ベルジュ 39

人生は苦しみと失望に満ちているものだ。したがって、あらたなリアリズム小説を書くことは無益である。現実一般についてなら、わたしたちはすでに、どれくらいのところで我慢すればいいかを知っているし、人生についてそれ以上を学ぼうという気にはほとんどなれない。人間そのものからして、わたしたちにはもはや大した好奇心を抱かせることはない。驚くべき繊細さを帯びたあの「描写」の数々、「場面」、逸話の数々・・・これらすべては、ひとたび本を閉じてしまえば、すでに「現実の人生」のある一日に充分に味わわされた軽い嫌悪感を思い出させるばかりだ。 / ここで、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの言うことに耳を傾けてみよう 「わたしは人間と世界に飽き果ててしまったので、一頁に少なくとも二件の殺人を織り込んだり、あるいは地球外空間からやってくる名状し難い恐怖の数々を論じたりすること以外には、何も関心をもつことができないのだ」。 / ハワード・フィリップス・ラヴクラフト(1890~1937)。 / わたしたちは、あらゆる形態の現実主義(リアリズム)にたいする、至高の解毒剤を必要としている。// 人は人生を愛しているときには読書はしない。それに、映画館にだってほとんど行かない。何と言われようとも、芸術の世界への入り口は多かれ少なかれ、人生に“少しばかりうんざりしている”人たちのために用意されているのである。 / ラヴクラフトの場合は、“少しばかりうんざりしている”、というのを少々超えていた。1908年、18歳のとき、「神経衰弱」なるものの餌食となって無気力状態に陥り、それが10年余り続くことになる。・・彼は家に閉じこもり、母以外とは話もせず、昼間はずっと起床することを拒み、一晩中、寝間着でうろつくのだ。 / おまけに、物を書くことすらしなかった。 / 何をしていたのか?たぶん読書を。だがそれも確かではない。・・・40

ラヴクラフトはといえば、自分がそんな世界(大人の世界とその価値観)とは何の関係もないっことを知っている。そして、いつも敗者を演じ続けている。理論においても実践においても、彼は少年時代を失くし、同じく信仰も失くしたのだ。彼は世界に嫌悪感を抱き、“もっとよく見れば”物事は別の姿を見せるかもしれないなどとは思ってもみなかった。宗教については、知識の進歩によって時代遅れになった「甘い幻想」に等しいと見なす。例外的に機嫌がよい時期には、宗教を信仰することの「魔法の輪」について語ることにはなる。しかしそれは、結局自分には入ることが許されないと感じていた輪なのだ。 / あらゆる人間の渇望すべての絶対的な無意味さにここまで侵食され、骨まで刺し貫かれた人間は、きわめて稀だろう。43

人生に倦み疲れた心にとって、ラヴクラフトを読むことが逆説的な慰めとなるのがなぜなのかはよくわかる。実際、どんな理由であれ人生のあらゆる様態にたいして本物の嫌悪を抱くにいたったすべての人に、ラヴクラフトを読むよう勧めることができる。初めて読んだときに引き起こされる神経の動揺は、場合によっては相当なものだ。一人でニヤニヤしたり、オペレッタの曲を口ずさんだりもする。実存への眼差しが変わるのだ。 / ジャック・ベルジュによってこのウイルスがフランスに持ち込まれて以来、読者数の拡大は電撃的だった。大部分の感染者と同様、わたしもHPLを16歳の時、ある「友達」を介して知ることになった。まさに衝撃そのものだった。文学にそんなことができるとは知らなかった。その一方で、いまだに本当にそうだとは納得していない。“実のところは、文学ではない”なにかがラヴクラフトにはある。48

実のところ、普遍的な射程をもった唯一の指示は、1922年2月8日付で・・に宛てられた一通の手紙に見いだされる・・・/ 「わたしは物語を努めて書こうとすることは決してありません。そうではなくて、ある物語が書かれることが“必要になるとき”まで待つのです。一篇の短編を書こうとして意図的に仕事に取りかかる場合、結果は平板で、質の低いものとなります」。69

彼はまさに自力で次の発見に至ったものと思われる。すなわち、科学的語彙の使用は詩的想像力にとって途方もない刺激となりうる、ということだ。正確で、微に入り細を穿ち、同時に理論的な背景に富んだ内容、すなわち百科事典のそれは、錯乱的かつ陶酔的な効果を創りだすのである。122

「褐色の面貌をした個体は、どちらかというと爬虫類的な特徴を示しており、シュー音を伴った母音省略と素早い子音連続で自己表現していたが、それは原始アッカド語のいくつかの方言を思わせるものだった」124

トポロジー(位相幾何学)の詩的な力を予感したのは彼が最初だったし、形式論理体系の不完全性についてのゲーデルの仕事に震撼したことにおいてもしかりである。なにやら胸の悪くなるような含意をもつ奇妙な公理系は、おそらくクトゥルフ神話の中心を構成する、謎に満ちた存在たちの出現のために必要だったのだろう。125

最後期の物語群においてHPLが用いている科学的観察の報告書の文体は、次のような原則に対応している“描写される出来事や存在が途方もないものであればあるほど、描写は正確で冷静なものなるだろう”、ということだ。131

今日から見れば、ラヴクラフトはいつにも増して不適応者であり隠者であるのかもしれない。1890年生まれの彼は、若い頃にすでに同時代人から時代遅れの反動と見なされていた。彼が生きていたなら、今日のわたしたちの社会について何を考えたのかは想像に難くない。彼の死後、社会は彼がますます嫌悪しただろう方向に進化してゆくことをやめなかった。機械化と近代化は、彼が全身全霊をもって愛着を抱いていたあの生活様式を、避けがたく破壊してきた(しかも、彼は人間が諸事象を統御する可能性についてはいささかの幻想も抱いてはいない。ある手紙に書かれているように、「この現代社会のすべては、蒸気と電気エネルギーの大規模な応用方法を発見したことの、絶対的かつ直接的な帰結以外の何ものでもない」)。彼が忌み嫌っていた自由と民主主義の観念は、地球全体に広まった。「わたしたちが嫌悪するもの、それは単に変化そのものだ」と言い放った人間にとっては身の毛もよだつものに他ならなかったはずの進歩観は、ほとんど無意識的な自明の信条になった。リベラルな資本主義はあらゆる人々の意識にまで支配を拡大してきた。その歩みとともに、拝金主義、広告、経済効率性への不条理でシニカルな崇拝、物質的な富への排他的かつ節度なき欲望が生まれてきた。さらに悪いことに、自由主義は経済的領域から性的領域にまで拡大してきた。感傷的なフィクションはすべて、木っ端みじんになった。純粋さ、純潔、貞節、慎みは、嗤うべき烙印となった。ひとりの人間の価値は、今日ではその経済力と性愛のポテンシャルによって測られるーすなわち、まさにラヴクラフトが、もっとも強く嫌悪していた二つの物によって、である。 / 怪奇幻想作家というものは一般的に反動的だが、それはごく単純な話で、彼らがとりわけ、あるいは言ってみれば“職業的に”、〈悪〉の存在に意識的だからである。ラヴクラフトの多くの弟子の誰一人として次の単純な事実に着目していないことはかなり不思議である。つまり、現代社会の進歩が、ラヴクラフト的な恐怖症をいっそう存在感のある、いっそう“生々しい”ものにしてきたという事実である。


ラヴクラフト全集 (1) (創元推理文庫 (523‐1))

ラヴクラフト全集 (1) (創元推理文庫 (523‐1))

  • 作者: H・P・ラヴクラフト
  • 出版社/メーカー: 東京創元社
  • 発売日: 1974/12/13
  • メディア: 文庫




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