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『日本語とジャーナリズム (犀の教室)』 武田 徹著 晶文社 [日本語・国語学]


日本語とジャーナリズム (犀の教室)

日本語とジャーナリズム (犀の教室)

  • 作者: 武田 徹
  • 出版社/メーカー: 晶文社
  • 発売日: 2016/11/25
  • メディア: 単行本


日本語の特性、それによって形づくられるジャーナリズムとは・・

日本語の特性を明らかにする興味深い論考。本書で指摘されている点を意識するなら、新聞・雑誌という(メディア・媒体)器がどれほどのものか了解したうえで、見、聞きできる。底がどの程度のものか分かる。ジャーナリスト(志望者)でないにしても、(生きていくなかでは、誰もが他者に向って自己を明らかにしていく必要があるわけだが、日本語を用いる)一個の発信者として、自己を確立していく上で(困難な道のりではあるが)助けとなるにちがいない。

著者は学生時代の思い出から論議をはじめる。(以下に示す目次を見れば誰であるかわかるが)これまで日本語、ジャーナリズムについて考え発信してきた人々の論考を、著者は自分の経験にそって解き明かしていく。それは、スリリングな内容だ。そう感じるのは、いくばくなりとも、著者が問題意識を抱いた筆者たちの論考を(評者も)見聞きする機会があったものの、明瞭に把握せぬままきたことが関係している。いわば、謎であったことが、解き明かされたのである。評者にとって本書は感謝にたえない内容といえる。

著者自身にとっても、たいへんコアな内容といっていいだろう。これまでもジャーナリストとして生活されてきた中で、つねづね考えてきたことであるにちがいない。日本語の「外へ」出るために、ジャーナリズムの「中で」四六時中苦闘してこられたにちがいない。そして著者は、「外へ」出るための指針も示してくれている。本書中取り上げられている論考自体たいへん興味深いものなので、目次中にあげられている人々を知らない方であればなおさら読んでみることをお勧めしたい。(以下、目次)

はじめに 1:日本語は批評やジャーナリズムの道具となりえるか(詩人とジャーナリスト、言葉が喚起するもの、荒木(享)先生のこと、文章を書く仕事、「彼」ではなく「氏」)

2:命題がたてられないーー森有正の日本語論(荒木先生と森有正、経験と体験、生成文法意味論では語れない、二人の「間」にある言語、鈴木孝夫の自称語と対称語、命題がたてられない、時枝誠記の日本語論、森有正の肉声、日本語なりの論理性)

3:論理的なのか、非文法的なのかーー本多勝一の日本語論(『日本語の作文技術』は教科書、本多とラガナの森有正批判、森の「現実嵌入」論、ずれていく論点、日本語がもつ法則、「わたしはさかなだ」を説明する、解けない疑問,二項対立、神の視点、事実をよりよく伝える、客観報道と主観報道、事実,真実,本質)

4:「である」ことと「する」ことーー佐野眞一、丸山真男、荻生徂徠(「する」型社会となっているか、早すぎた近代人,荻生徂徠、荻生徂徠の言語観、行為動詞があてはまらない、行為的な言語活動として)

5:国語とジャーナリズム(方言では通じない、漢語と口語体の新聞文体、小説における言文一致体、国家と国語と、言葉づかいが階層をあらわす、民主化の時代のジャーナリズム)

6:無署名性言語システムの呪縛ーー玉木明のジャーナリズム言語論(ジャーナリズムと言語システム、言葉はモノの名前か?、現代言語学が届かない、「無署名性言語」の発明、「思われる」と「みられる」、誰もがそう思うはず、イエスの方舟事件、「正しさ」の罠、ニュー・ジャーナリズムの可能性、武器としての三人称)

7:中立公正の理念とジャーナリズムの産業化ーー大宅壮一と清水幾太郎(大宅壮一のジャーナリズム気質、中立公正の理念と産業化、清水幾太郎とジャーナリズム、粕谷一希が語る大宅と清水、綜合雑誌の役割、直接行動への強い希求、大宅と清水の日本語観、「が」がもつ曖昧さ、関係依存型の新聞言語)

8:「うち」の外へ、日本語の外へーー外岡義男の日本語論(『日本語の外へ』の冒頭、湾岸戦争、すべて I から始まる、父の英語、一人称をもたない日本語、言語の自然な本性、I ではなく,「うち」、消えない光、核の傘の下で、時制をもつ言語と,もたない言語)/ おわりに

2017年1月18日にレビュー

日本語の外へ (角川文庫)

日本語の外へ (角川文庫)

  • 作者: 片岡 義男
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2003/09
  • メディア: 文庫



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