『武満徹・音楽創造への旅』立花隆著 文藝春秋刊 [音楽]
(以下、当該ブログ 2016-04-14 投稿分)
立花さんの新刊を読み出した。2段組の800ページにおよぶ分厚な書籍だ。
立花さんは、大文学などの「時間コンシュームな作品」を年を重ねて読まなくなったとどこかで書いていたように思う。人生の先の短いのを実感するようになってから、時間の浪費をきらうため、だ。
手にして、「読むのは敬遠するが、書くのは平気・・?」など思いながら読み始めた。「時間コンシュームな作品」に思えたが、読みだしたら、おもしろい。面白いから、時間がかかろうがかかるまいが、そんなことはどうでもよくなった。なにしろ面白いのである。
以前に立花さんが、武満徹にインタビューしたものが元になっている。武満が正直にてらわずに答えているのが印象的で、よくここまで話させたものだと感心している。また100ページほど読んだだけなのだが、たいへんよい出来に思える。
天才というより、当方には「異星人」に思えた武満徹という人物を知ることができる。その創造の過程を追認できる。戦後のどさくさ時代の音楽界について知ることができる。音楽をとおして西洋と東洋のちがいの示唆を受けること大である。
巻末、「おわりに ~長い長い中断の後に」と題して、「本書の成立過程」が記され、そこに、著者の音楽理解に貢献した0・Mなる人物のことが記されている。著者の「がん友」である女性のことだ。本書の完成直前に壮絶な死を遂げた。
なんだか、それを読んでの漠然とした思いではあるが、この出来のいい仕事が、立花隆の「白鳥の歌」にならなければいいがと危惧している。
(以下、武満がのっぴきならなくなって作曲家になったというくだりを引用してみる)
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ー自分に本当にそういう才能があるんだろうかなんていうことは、心配しなかった。
「ええ、しなかったです」
ー才能に対して、内的確信があった。
「いや、そんなに自信があったわけじゃないんですけど、何かのっぴきならないというか、今風にいえば『やるっきゃない』という感じですよ。いま考えると、ずいぶんあっさり思い切った決断をしたなと思いますよ。ちょっと恐ろしいくらいですね。こんなことは人にすすめられません。最近ときどき、若い人が手紙を書いてきて、自分も作曲家になりたいと思ってるんですが、どうでしょうと、相談してきたりするんですが、ぼくは頑張りなさいなんて励ましたことはありません。音楽は趣味でやる程度にしておいたほうがいいと忠告します。
ぼくの家まで来て、玄関の前にじっと立っている奴もいる。だいたいちょっと変なやつです。もう少し普通のやつが作曲を志望してくれりゃいいと思うのに、だいたいそうじゃないのがやりたがる(笑)」
ーだけど、武満さんだって若いときに清瀬保二さんに師事しようと思って出かけていって、留守宅にあがりこんで6時間も待っていたことがあるんでしょう。客観的に見れば、かなり“変な奴”だったんじゃないですか。
「それはそうかもしれない。だけどね、『何やりたいの』と聞くと、『作曲家になりたいんです、教えていただけないでしょうか』。これはぼくは間違いだと思うんです。作曲家になりたいというのはいけない。『作曲をしたい』か、『音楽をしたい』ならいい。ぼくはさっき作曲家になる決心をしたといったけど、それはそういう職業を選択したということじゃないんです。とにかく音楽をやりたかったんです。作曲を通じて音楽をやりたかったんです。音楽以外何も頭になかった。寝てもさめても音楽のことばかり考えていました。のっぴきならないというのはそういう意味なんです」
ーそれで、学校に行く気はなくなっていたけど、ピアノを弾くために学校に行ったという話になるんですね。
「そうなんです。作曲家になるといってもピアノがないとどうにもならない。どうしてもピアノが弾きたいんです。学校には、音楽室と講堂にピアノがありました。いつも鍵がかかってるんですが、ぼくの友達に不良が一人いて、そいつが鍵をこわしてくれるんです。しかしすぐ見つかって、怒られ、また鍵がかけられる。するとまたその友達がこわしてくれる。そのいたちごっこを繰り返していたわけです。
この時期、社会運動にもふれた。
「戦後の混乱した教室のなかに、私の心を満たすものは何もなかった。共産党の運動に参加したのは、私に深い認識があってしたことではなかった。サークルの会合で読まされたマルクスは、戦争中に、田舎の古本屋が隠しもっていたものを読んだ時ほどに私を動かさなかった。私には、民族とか国家とかいう次元で問題を考えることはどうしてもできなかった」(「暗い河の流れに」)